ニセ科学批判批判の対応

 ここ数日、はてなの物凄く狭い界隈では「ニセ科学」を批判する人々を批判する「ニセ科学批判批判」が盛り上がっている。
 はてな外の人からすると何のことかよく分からないと思うが、タグ「ニセ科学批判批判」 を検索 - はてなブックマークあたりを見ていくと分かるかもしれない。
 いくつか自分もブックマークしているが、短いコメントでは書ききれない。
 ここらで一つ、自分の考えを書いておこう。
 整理しきれていない雑感を、一つのメモとして。


 ニセ科学批判批判の主張の一つに、「ニセ科学批判は有効ではない」というものがある。
 この問題提起が気になるのは、「ニセ科学批判」としている活動が何のことか分からない点にある。
 ニセ科学批判批判の各エントリを見ていると「ニセ科学に言及するブロガーのエントリやブックマークコメント」でしかないようだが、ここで具体的に「効果がない」とか「ニセ科学批判」とされている内容が明示されていない。
 実際、ニセ科学批判は問題意識や関わり方が多様であるため、一枚岩の言論活動をしているわけではない。
 しかしはてなのサービスを使うと、ニセ科学に対するブックマークコメントやエントリを集中的に見ることができる。
 また、はてなのアカウントを持つ人間は興味を持つ話題が重なるとある程度集団として可視化されやすい。
 くわえて、ブックマークコメントは短く、ニセ科学の検証過程や批判対象の具体像が見えないことが多い。
 つまり、はてブ経由でコメントやエントリしか見ていないと、「一枚岩の批判コメント群」としか見えないことになるのではないだろうか。
 これはあくまで憶測で、ひょっとしたらニセ科学批判批判の人々にはkikulogのkikulog辺りまでチェックしている人もいるかもしれないが、そういう例示はこれまで無かった。
 発端となった問題意識は、どこを見て生じたのか、その点の曖昧さが論点をぼかし、かみ合わなさを生んでいるのではないだろうか。
 ニセ科学批判の有効な方法論、あるいはニセ科学を批判する側の問題(大槻教授という悪い意味での先例もある)というのは、ニセ科学という語が定着する前もしてからもなされており、そしてそういう部分はあまり知られていない。
 しかし、はてなブックマークのような場では、そうした過程は見えない。
 どうしてニセ科学と認識されるようになったかの過程や、ニセ科学批判を行う方法論の議論は、なかなか見えにくいものだ。
 また、逆にニセ科学そのものの実態や危うさも、はてブだけでは知ることは難しい。
 だが、ニセ科学批判批判はしばしばはてブコメントやニセ科学批判批判への反応そのものにこだわる。
 私から言わせればそういうニセ科学批判批判こそ有効ではない。
 まず、ニセ科学そのものにあまり問題がないと思うなら言及すべきでない。
 ニセ科学に重大な問題がない上にニセ科学批判に有効性がないなら、そもそも何ら問題視する必要はないではないか。
 あまり意味のない議論が飛び交っているだけのことだ。
 私は、実態はそうではないと考えているが。


 もしニセ科学を問題視した上でニセ科学批判批判の言動を問題視するなら、「有効なニセ科学批判」を例示すべきだ。
 何も代案を出せというのではなく、そもそもニセ科学批判の活動は一枚岩ではなく色々な関わり方があるので、有効だと判断したニセ科学批判を具体的に示してみればいい。
 同時に有効ではないというニセ科学批判の具体例も提示したほうがよいだろう。
 これまでニセ科学批判批判の側が想定する結果や有効性の条件は、主観的にしか示されていない。
 これでは、有効性をどう認識するかでいくらでも負けない議論ができる。
 ニセ科学批判が有効な結果を出した、と例を出しても言い逃れが容易なのだ。
 主観的に「ニセ科学批判は結果が出ていない」ということだけを判断基準にするのは、あまりに粗雑すぎる。
 同様の論法を取れば、現状のニセ科学批判を改善する/なくすという結果が出ていないニセ科学批判批判は問題だということさえ言える。


 ニセ科学批判を集団暴走、マスヒステリーのように認識するニセ科学批判批判者がいる。
 これもはてブからしか世界を見ていないことが原因なのではないかと思う。
 感情的なもの、あるいは検証過程を重視しないはてブコメントもあるが、それはあらゆる批判に存在する問題だといえる。
 例えば社会問題や歴史修正主義への批判でもそうした反応はある。
 そして、世間には数多のニセ科学が存在し、本屋に行ってもテレビを見ても新聞広告を見ても検証が不十分なニセ科学を信じている(あるいは利用している)商品は数え切れない。
 それと比較してニセ科学批判の活動は極めて小さく、しかも一定の検証や議論の結果、ニセ科学と認識されるようになったものが批判されているのである。
 更に言えば、はてなダイアリーにしてもネット全体にしても、ニセ科学批判というのは少数派で、とても集団の暴走だのというほどの規模も同一性も無いだろう。
 あるいは、はてブ経由でニセ科学批判を見ていると、大勢の人間が同じような事をしていると思うのか。
 実際には大きく注目された問題に、ニセ科学批判と関わりの薄い人間もコメントしているだけだと思うのだが(そしてそれはニセ科学批判の問題というよりはてブの特徴だ)。
 また、ニセ科学批判に対して「身内に甘い」という意見があったが、実際には「身内」意識というのはあまりないだろう(これはあくまで私個人の感覚が根拠)。
 例えば天羽優子先生の水商売批判を支持していても、国籍法問題でのエントリを批判したように。
 翻って最近のニセ科学批判批判の発言を見ていると、皆同じようなことを言って互いの発言をフォローしている。
 それは「身内に甘い」と言わないのだろうか。自分達は正しいからいいのか?
 また、ニセ科学批判批判者は「ニセ科学批判」を行う人間をどこまで具体的に判別できているのだろう。
 都合よく一括りにしているが、ニセ科学批判の「身内」をどのように認定しているのだろう。
 色々と疑問は重なる。


 ニセ科学批判批判というのは今回の一連のものより以前からあった。
 そうしたニセ科学批判批判の問題意識の全てが、意味不明・理不尽というわけではない。
 ニセ科学批判批判が生まれるような反発を生むという点からも理解できる。
 だが、これまでのニセ科学批判批判の内容は、ひどく雑に批判対象を認識するので役に立たない。
 今回も、最初に特定の相手(あるいは具体的な複数名)の、具体的なニセ科学批判に絞って批判していればまだ見込みはあったし、ニセ科学批判の議論にも貢献したかもしれない。
 しかし、そうはならなかった。
 こうなると批判に対する反応の応酬が中心となり、「ニセ科学」もその中で抽象的に語られがちとなる。
 この一連のやり取りの後に残るのは、「ニセ科学批判批判への対処法」だけだ。