江戸時代のゴキブリ

先日、ブックマークコメントに次のようなことを書いた。

machida77 いや、江戸時代の『和漢三才図会』なんかでもゴキブリは害虫扱いですよ。糞を残し、米や麹室を喰い荒らすので、対策も油紙で集める・カワラニンジンで遠ざける等ちゃんと考えられていました
 はてなブックマーク - ゴキブリが「害虫」になったのは戦後のことだったのだ! - Nothing Upstairs

この辺の話に興味がある人もいるようなので、紹介する。
私の情報源は、高校生の時に買った平凡社東洋文庫の『和漢三才図会』(全18巻)だ。
この『和漢三才図会』は、江戸時代中期(1712年頃)に大阪の医師・寺島良安によって作られた絵入りの百科事典で、江戸時代の事物に関する知識の多くが盛り込まれている。
日本のゴキブリについては平安時代からそれらしい記録があるが、本格的に文献に登場するようになったのは江戸時代からだ。
都市化や流通によってゴキブリの生息域が人間の領域に入り込んでいったせいだろう。
江戸時代、ゴキブリはアブラムシ、ツノムシ、ゴキカブリ等の名前で本草学の本で紹介されるようになった。
『和漢三才図会』はその代表的な例で、ゴキブリについて虫部の「化生類」に載せている(東洋文庫版では7巻)。

和漢三才図会〈7〉 (東洋文庫)

和漢三才図会〈7〉 (東洋文庫)

以下、多少読みやすいように漢字・句読点などを改めて引用する。

蜚蠊(あぶらむし/フイ レン)
(和名は豆乃無之(ツノムシ)。俗に油虫という)
思うに、蜚蠊は古い竃の間に生じる。大きさは五、六分。翅はあるがよく飛ぶことはできない。ただし這っていくのは非常にはやい。赤褐色で、その匂いも色も油のようである。それで俗に油虫という。夜は隠れていて昼に出てくる。甚だしい時は数百と群れをなし、卵を尾に挟んで歩き、喜んで飯を食う。いたるところに黒屎を残し物を汚すので、蝿と同様に憎むべきものである。あるいは純白のものもあって、ともによく油紙につく。それで古い傘を使ってその内に沢山集まるのを待って取り捨てる。死にやすく、生き返りやすい。にじり殺しても頭さえ潰されていなければすぐ生き返る。


五器噛(ごきかぶり)
これはつまり油虫の老いたもので、それほど多くはない。ただし、麹室の中に多くいる。大きさは一、二寸。気色ともに油虫に似ていてよく飛ぶ。常に台所にいて飯器の中に隠れており、夜になると出て灯火をかすめて飯粥を盗み食い、飯器をかじり損じる。それでこういう名がついている。


油虫を避ける法
青嵩(かわらにんじん)の茎葉を竃の間に挿しておけば絶える。



ここでは省略したが、中国の明代に書かれた本草学の事典『本草綱目』からの引用も書かれている。
この文章から、油虫とはチャバネゴキブリ、ごきかぶりとはクロゴキブリかヤマトゴキブリのことであることが分かる。
基本的に現代でいう害虫であると認識されていると思っていいだろう。
一部地域によっては富を意味した例があったようだが、「ゴキブリが害虫になったのは戦後から」とまでいうと誤解を招きそうだ。
こうした日本の過去のゴキブリの記録については安富和男『ゴキブリ3億年のひみつ』(講談社ブルーバックス、1993)でも紹介されているので、一読をお勧めする。

ゴキブリ3億年のひみつ―台所にいる「生きた化石」 (ブルーバックス)

ゴキブリ3億年のひみつ―台所にいる「生きた化石」 (ブルーバックス)