ロシアの軍隊格闘技の原点の一つとしての運動生理学『デクステリティ 巧みさとその発達』

デクステリティ 巧みさとその発達

デクステリティ 巧みさとその発達

ソ連-ロシアの軍隊格闘技の一つカドチニコフ・システマは、その開発段階で運動生理学を参考にしたとされている。
K-Sys: An American Understanding of the Basics of the Kadochnikov Style of Hand-to-Hand Combat FightingにもA.A.カドチニコフは生理学者N.A.ベルンシュタインの研究からカドチニコフ・システマが創始されたとある。
そのニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルンシュタイン(Николай Александрович Бернштейн, 1896-1966)について知るために、彼の著作の唯一の邦訳である『デクステリティ 巧みさとその発達』を読んでみた。


『デクステリティ』が書かれたのはスターリン統治時代だという。
1947年、ベルンシュタインは『動作の構築について』という本を出版し、動作障害の治療に携わる外科医から高い評価を得て、スターリン賞を受賞した。その後、ソ連反ユダヤ主義が高まったことと(ベルンシュタインはユダヤ人)、ベルンシュタインがソ連の権威的研究者であるパブロフの条件反射説を批判したことから、「パブロフを貶める非国民的研究者」として共産党機関紙「プラウダ」で批判記事が書かれた。その結果、ベルンシュタインは職を失い、著作の出版は中止された。
『デクステリティ』の原稿がかつての同僚によって発見されたのは、ベルンシュタインの死後20年が経ってからである。その後ベルンシュタインの業績の再評価が進み、ロシアでは1991年、英語版は1996年、邦訳は2003年に出版された。
1960年代に創始されたカドチニコフ・システマと同書の直接のつながりはないが、カドチニコフが参考にしたベルンシュタインの研究内容は同書の内容に反映されているはずである。


ベルンシュタインが同書で扱う「巧みさ(デクステリティ)」とは、運動課題を解決する能力であり、スピードや力強さではなく制御の機能である。
そして巧みさは、人間の体の自由度が高く適切な動作のために調整が必要なこと、そして環境に適応することと密接につながっている。
たとえば鍛冶屋がハンマーを振り下ろす軌道は毎回異なっているが、打ち付けられる場所は同じである。ベルンシュタインは、この違いを誤差ではなく適宜性の発現ととらえた。

ハンマーを正確に振り下ろす背景にあったのは、同一動作の再現ではなく、多様で柔軟な動作による機能の実現、すなわちその場に適応的な動作の創造であった。

これは、武術の型や練習が鋳型のように固定的な動作を作るものではないとされるのと同じことだと考えていいだろう。
ベルンシュタインは反復練習の重要性を論じている。ベルンシュタインによれば、反復練習の意味は、同じ動作を再現するためではなく、課題解決のプロセスを繰り返すことでよりよい解決策を編み出す能力を身につけるものだとしている。要するに過去の再現ではなく未来の創造のために反復練習があるのだ。従って反復練習には多様な解決のプロセスを含んでいる必要がある。
上で少し言及したベルンシュタインのパブロフ批判の一つもこの点にある。変化する環境の中ではある特定の状況で最適だったパターンを繰り返しても不適切な動作となりうる。予測できない状況に合わせた最適な動作を生み出すのは固定的なパターンを身に付けることではなく、その状況に合わせた動作を生み出す能力なのである。
以前、システマ(リャブコ・システマ)の練習についてパブロフ的な条件反射で説明している文章を読んだことがあるが、そうした考え方は固定したパターン化を避けるシステマにはそぐわない。ベルンシュタインの主張に基づいて考えるほうがはるかに理解しやすい。


同書ではこの「巧みさ」について、数多くのスポーツ、格闘技、兵士のエピソードや昔話・例え話を出しつつ、緻密に解説している。上で紹介した内容はかなりざっくりと削ぎ落としたものだ。難解な言葉が使われているわけではないが、この量と内容はとっつきやすい本だとは言えない。しかしこの種のテーマについて学びたい場合にはお勧めできる本だ。
出版社の紹介と目次→デクステリティ 巧みさとその発達 - 株式会社 金子書房