虫の声を聞き取る日本人の脳は特別か?

日本人の脳の働き方は虫の声を「声」として聞き取るように特殊だという記事が掲載されていた。
なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?- 記事詳細|Infoseekニュース
これは角田忠信の『日本人の脳 脳の働きと東西の文化』(大修館書店、1978年)などで広く一般に知れ渡った説だ。

日本人の脳―脳の働きと東西の文化

日本人の脳―脳の働きと東西の文化

他の本で言及されていることも多いので、それで知った人もいるだろう。
しかしあまり知られていないが、この説の根拠となる研究には問題があったのである。
この角田忠信の主張に否定的な論文が1981年に出ており、さらに『科学朝日』誌上で1990年3月号からこの問題についての論争が掲載されたことがある。それらの内容から考えると角田説に学術的な価値はないと考えていい。そもそも虫の音を日本人だけが特に聞き取るという前提からして実証されていない。
この件については八田武志(2013)『「左脳・右脳神話」の誤解を解く』(化学同人)に詳しい。
「左脳・右脳神話」の誤解を解く (DOJIN選書)

「左脳・右脳神話」の誤解を解く (DOJIN選書)

同書の内容を元に「日本人の脳」説の問題点について紹介してみよう。


角田忠信は当時、独自の実験手法で日本人の脳と西洋人の脳の違いを明らかにしたと主張した。角田説の根拠となった研究で使われた実験手法は、その頃国際的に左右脳と聴覚の研究で使われていた試験法ではない。その手法に不明瞭な点があったこと、角田理論について査読付きの学術論文がほとんど無かったこと、合致するような追試がなかったため、一般メディアには受けたが学術的には評価されなかった。
角田テストでは音に追従して操作する電鍵を押すリズムが乱れることから感受性を判断していたのだが、この「リズムが乱れる」ことをどう定義し、判断するかが明らかではなかった。
このため完璧な追試は実施できず、角田忠信の『日本人の脳』の検証として行われた他の研究者の論文では別の試験法が使われている。1981年の以下の論文では虫の音など環境音の中で英語の数系列を聞き取るテストを英国人と日本人を対象に行った。結果は違いがなかった。
The inferential interference effects of environmental sounds on spoken speech in Japanese and British people. - PubMed - NCBI
時代は下って1990年。『科学朝日』誌で「立花隆が歩く 研究最前線」という連載記事に「脳の専門家の間では角田説はあまり受け入れられていない」という内容が書かれた。
CiNii 論文 -  立花隆が歩く-15-東大医学部放射線科--脳の働き
立花隆は、東京大学に導入された脳画像測定装置(PETスキャン)の取材を行い、日本人と西洋人との脳機能に違いは見出せなかったという実験結果を紹介した。同記事で角田説が支持されていない状況について言及したのだ。
それに対する角田からの反論が『科学朝日』1990年6月号に掲載され、続く7月号・8月号に論争が掲載されるという事態になった。
CiNii 論文 -  日本人の脳機能は西欧人と違う--脳の研究の難しさと誤解
CiNii 論文 -  「日本人の脳は特異」説への疑問--角田氏の反論を読んで (論争 右脳・左脳と日本人)
CiNii 論文 -  追試者は結局,創始者を超えられない--久保田氏のコメントを読んで (論争 右脳・左脳と日本人)
CiNii 論文 -  角田理論を支持する電気生理学的実験 (論争 右脳・左脳と日本人)
CiNii 論文 -  実り少ない民族差の研究 (右脳・左脳と日本人-続-)
CiNii 論文 -  論理性と客観性が不可欠 (右脳・左脳と日本人-続-)
この論争において、角田説の新しい実験手法にも不明瞭な点があること、他の研究者達による既存の研究結果と整合性がとれないといった問題点は(新しい実験方法やその後の脳研究の進展にも関わらず)変わらなかった。また角田の「追試者は結局、創始者を超えられない」といった追試の意義を低く見る主張も研究者として問題があった。
詰まるところ、角田説は科学的な手続きや検証を十分経たものではなく、通俗的な日本人特殊論で使われているに過ぎない。