神道関口無胸流・佐藤兵馬の話

幕末の阿波に佐藤兵馬(あるいは佐藤平馬)という剣士がいた。
多くの弟子がいて、神道無念流関口流、当眼流、方心流をもとに神道関口無胸流という流派を立てた。
この佐藤兵馬については『徳島の剣道 第20号』の坂本裕二「徳島の剣道史 讃岐金刀比羅宮の佐藤兵馬の絵馬(武道額)」に詳しい。
徳島の剣道 第20号
佐藤兵馬の絵馬については猪井達雄「こんぴら古記録」(『こと比ら』(39),金刀比羅宮,1984)にも出てくる。
こと比ら (39) - 国立国会図書館デジタルコレクション

佐藤兵馬は、全国的な著名人ではないが伝説的な逸話がある人物で、小松和彦編『記憶する民俗社会』(人文書院, 2000)に収録されている橘弘文「無法者とその身体 竹本長十郎の伝承を中心にして」に佐藤兵馬の伝承についての章がある。
穴吹町誌』によれば佐藤兵馬は神道関口無念流の元祖で(同書では無胸流ではないらしい)、武術がうまく高松領でも剣術指南番をしていたとあり、讃州塩屋村で不始末をしでかし、地元である徳島県美馬郡穴吹町三谷に戻ってもわがままの振舞をする不埒不届の輩だったという。

兵馬は剣道の一流の人。徳島はもちろん讃岐の方へも行き、我に勝るものなしとして、善いこと悪いことをして帰ってくる。あるとき、高松さんから脇町の稲田に佐藤兵馬を捕ってくれと、申込があった。だが、誰が行っても兵馬が手に払いあない(捕まらない)。皆、帰ってくると「(兵馬は)おりませんでした。おりませんでした」と言い訳をした。そこで謀り事をして兵馬を稲田の屋敷に呼出し、酒に酔わせて留置した。そのころ、千葉周作の弟子が稲田のところにやってきた。そして千葉周作の弟子が稲田の家来と勝負すると、稲田の者がみんな負けた。これでは稲田の顔が立たないと、留置していた兵馬を出してきて、千葉が連れてきた七人の弟子と勝負させたら、兵馬は七人全部やっつけた。ああ稲田も顔が立ったということで、三谷の代官が「今夜私の家に泊まらんか」と言って、千葉周作の一行を三谷の代官屋敷に泊めた。翌日、代官の息子が「四国を巡行するのなら、私を連れて回ってくれ」と千葉に頼んだら、千葉は「悪いが、我には見込がない」と断ったので、後に代官の息子は自殺した。千葉は兵馬を連れて四国を巡行した。兵馬は千葉の弟子として長年送った。

この伝承では北辰一刀流を学んだことになる。千葉周作が兵馬をよく訪ねてきたという伝承もあるという。
兵馬は長年千葉周作に従って全国を巡ってきたあとに三谷に戻ってきて亡くなったとも、修行に出たまま三谷に戻ってこなかったとも伝えられている。
佐藤兵馬と千葉周作の関わりが本当かどうかは疑問の残るところで、千葉周作が有名人だから作られた話という可能性があるだろう。

兵馬の技量については上の伝説のような試合だけでなく人斬りの伝承としても残っている。

兵馬は、三谷で畑をして暮らしていたが、銭がなくなると讃岐や他所へ行って、人を斬った。兵馬に斬られた人は、斬られた後も何間か歩いた。切られた本人が兵馬の斬り方が上手なので、しばらく気づかなかったのだ。これほどの斬り方は、穴吹の佐藤兵馬しかいないということで、讃岐から捕り手が三谷に来た。しかし捕り手は兵馬を恐れて兵馬のそばに近づくことができなかった。
兵馬は、そう大きくなく、小柄であった。兵馬が質素ないでたちで讃岐の金毘羅さんへお参りに行ったとき、ある人が、兵馬の質素な服装をみくびって、兵馬に無礼なことをした。そこで、兵馬は間に人を一人挟んだまま後からこの無法者を斬った。斬られた者は、しばらく歩いてからぺたりと倒れた。最初、すぐ後を歩いていた者に殺人の嫌疑がかけられたが、これだけの斬り口は、佐藤兵馬しかいないというので、讃岐から三谷に捕りものに来た。しかし捕りものたちは、下の畑から「御用、御用」と言うだけだった。
兵馬は、高松さんの弟子も、坂出さんの弟子も殺した。そうして琴平へ出て逃げて戻ってきた。

兵馬の伝説は他にも同書に様々な例が出ているが、この二つの話が特に大きく取り上げられている。

なお、明治三年に起きた稲田騒動(庚午事変)の結果、稲田邦植とその家臣達は北海道日高郡静内町に移住した。
ja.wikipedia.org

橘弘文によると、今(論文執筆年か)から7、8年前に兵馬の孫とひ孫が、兵馬の事跡を調べるために兵馬の屋敷跡に住んでいる人のところに北海道から訪ねてきたという。

また『樽川百年史』によると1903年(明治36)に「横井は、南線に神道関口無胸流の剣道道場を開く」とある。
樽川百年史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
以下に樽川町の南線地区には香川県から入植した横井元八氏以下14戸が入植したとあり、こちらでは讃岐の神道関口無胸流の剣士が教えていた可能性が高い。
主催講座7「石狩歴史散歩」 第1回「南線・樽川地区と了恵寺の碑と歴史の痕跡を訪ねて」|トピックス|いしかり市民カレッジ

佐藤兵馬の絵馬、人斬りの逸話、そして南線地区の南線神社が讃岐金毘羅神社からの分霊と、多くの話で金刀比羅宮が関わってくるのが面白い。

(2023-08-15追記)
雑誌『歴史と旅』6(6)(67)(秋田書店,1979.6)の読者ひろばに北海道で神道関口無胸流の剣道道場を開いた横井氏の子孫の投書があった。
祖先について調べているということで、割鋏に唐松という家紋を使っている事、祖父・横井元八正勝は慶応三年四月、当時の徳島県三谷村の佐藤兵馬から神道関口無胸流の免許を許され、高松藩の指南役を勤めていたという情報を提示している。