蕨市立歴史民俗資料館「魅惑のプロパガンダ~虚構まみれの言葉の世界~」

第34回平和祈念展「魅惑のプロパガンダ~虚構まみれの言葉の世界~」|蕨市公式ウェブサイト

蕨市立歴史民俗資料館「魅惑のプロパガンダ~虚構まみれの言葉の世界~」に行ってきた。
蕨に行くのは久しぶりだ。

この展覧会は戦時中のポスター、広告、新聞記事、商品など様々な分野の戦時色の強い例を展示・解説するものだ。
「欲しがりません勝つまでは」のような有名なものから珍しいものまである。


江戸後期~昭和初期くらいの日本人は番付表大好きで何でも番付表にしたが「非常時乗り切り男女いろは番付」という、戦時中の国民生活のための番付まで作られていた。嫌な番付である。

勤労関係のポスターは多い。「いざ見せん俺等(おいら)の實力(ちから)」というルビが力強い。

ニッチクレコードの戦機爆音集のレコードまであった。



広告関係は有名どころが並んでいた。当然ヒロポンの広告もある。

この他紹介しきれないが大本営発表により事実と異なる記事が載った新聞記事と対日宣伝のために投下された新聞状のビラ「落下傘ニュース」とを比較し、落下傘ニュースのほうが事実を載せていたことを示すなど色々なものがある。

日本だけでなく海外で使われたビラも展示されていた。
4匹の豚が描かれたビラを指示通り折ると5匹目の豚・ヒトラーの顔に!というビラ、工夫してあるけど宣伝として効果があるのかよく分からない。



今回の展示で最も面白いのはこの「戦時下の蕨劇場」。
国策にあった戦時色の強い芸能・演芸しか許可されなかった時代の蕨の状況が伺える。
この展示の「怪力奥田無鉄砲斎」には見覚えがあった。

池内紀『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』(河出書房新社, 1987)に出てくる芸人の一人だ。

上の写真は同書に出ている奥田無鉄砲斎の写真だ。
池内氏はかつて中之条でその芸を目撃し、その思い出と奥田無鉄砲斎の経歴について書いている。
それによると無鉄砲斎は色黒の痩せた男だったという。
壜を割った破片を筵の上にばらまいて無鉄砲斎がその上に横になり、腹の上に米俵が2つ乗せられ、米俵の上に横にした梯子を乗せ、さらに3俵の俵が乗せられ、臼が運び上げられ、男2人が餅をついたとある。
他に針で喉に糸を通して水の入ったバケツをぶら下げる・ロープを口にくわえて何人もの力自慢と綱引きをする・抜き身の刀を握り、その手を縛り、刀を引き抜かせるといった芸を見せ、腹の上での餅つきは最後の大一番だったという。
その後、池内氏は無鉄砲斎の雑誌記事を読み、そこに出ていた経歴を紹介している。19歳で修行を始め芸能生活50年になったとか、上州高崎の生まれで昭和11年頃横浜にきたフランス人ション・ケンテルが腹の上で自動車を走らせるのを写真で見て発奮し、独学で芸を開いたという話だ。
戦前の無鉄砲斎は高崎の小さな家で一人暮らしをし、貧乏暮らしで壁一面に日本各地の警察や軍隊、学校からもらった感謝状を貼っていたとか、今も奥田芸能社の社主として温泉などで興行をしているといった話も出ている。テレビ番組に出たこともある。
それにしてもこの本では上州高崎の出身だが、蕨市の展示のポスターでは埼玉県出身になっているのはどういうわけなのか。
興行として、同じ県の出身のほうが受け入れられやすいといった認識があったのだろうか。謎である。

蕨市立歴史民俗資料館分館である明治時代のに織物の買継商の古民家も行った。

そして帰りに蕨のホームセンター・スーパービバホームへ。

約1万5千㎡の広大な売場面積に業務用も含む大量の資材・工具・機材があり、並みのホームセンターの規模ではなかった。
福島市の鎌田のカインズホームの売場面積は3267㎡だから、それと比べると桁違いだ。
巨大なホームセンターというだけでなくショッピングモールの機能がある大規模複合商業施設である。