話題の秋葉原通り魔事件が起きた時、私はクザンブレードショーに参加していた。会場で(正確には会場の建物の前で)ワンセグやメールを介して事件について知った。ショーの参加者ではないかという怖い予想もあったが、当然そうではなかった(カスタムナイフでその手の犯罪を犯す人間はまずいない)。
報道からもこの事件がナイフの規制につながる可能性は高いだろう(どういう方向性かが問題だ)。アメリカなどでもそうなのだが、刃物は刃物そのものの危険性で規制されるのではない。日用品ではなく、武器としてデザインされたものが犯罪者に使われるから規制されるのだ。ニューヨークやカリフォルニアではヌンチャクが規制されているが*1、これもヌンチャクの殺傷力云々よりもヌンチャクでバカやらかすのがいたせいである。飛び出しナイフ(スイッチナイフ、オートナイフ)やバタフライナイフが各国で規制されているのも、バカガキやチンピラがこの手の刃物を好むのが原因だとされている。
要するに「犯罪者に好まれる日用品ではない刃物」だから駄目なのである。ここで問題なのは「犯罪者に好まれる」という部分が印象によって決定されるということだ。あるいは実際に犯罪に多く使われているのかもしれないが、統計的なデータよりも悪い印象が社会に広まることが規制につながる。
こうした状況でナイフ愛好者が「刃物は人を殺さない。人が人を殺すのだ」と主張しても社会に対して説得力はない。この言葉は身内(ナイフ愛好者)同士でしか通用しない。身内が少ない以上、意味のある言説だとは思えない。第一、人を規制するよりも刃物を規制するほうが主張としても社会制度としても容易なのである。携帯電話を子どもに持たせるな、というのと同様に。しかもナイフの場合(特に日用品から離れたものほど)、一般人にとって必要性が低く、容易に排斥論を生む。この手の犯罪が起きるとナイフ愛好者には「庖丁のほうが犯罪に使われる」と主張することがあるが、これもあまり意味はない。庖丁ほどナイフは世間に必要とされていないからだ。
ではナイフ愛好者はどうすれば良いのか?これは難しい問題だ。特にカスタムナイフや高品質のファクトリーナイフを愛好している人間からすると、犯罪に使われているナイフと自分たちが好むナイフはまるで別物なのだが、法律ではその辺の差異は問題にならない。犯罪者がよく使うナイフの世界とは別のナイフの世界があることが社会に認知されれば良いのだが…いずれにしても少数派なので規制に対抗するまでに至るのは厳しいだろう。