図書館からBL小説を締め出すな

 堺市立図書館のBL小説の扱いについて、いまだにあちこちで議論がなされている。
 BLとBL読みを貶めるのもいい加減にしてもらいたい。 - __ScrapBook of Plumberはてブコメントを見ていてまた腹が立ってきたのでエントリを立ててみる。正直いって、この種の知識がなさそうな人のはてブのコメントにはろくなものがない。


 自分の見解は前に図書館がBL図書を置く問題について、参考になりそうな話(3) - 火薬と鋼に書いた通り。

 私個人の見解を表明しておきます。まず私は図書館資料の価値論と要求論では価値論に重きを置いていて、ボーイズラブ小説を大量に受け入れることには否定的です。しかしそれは収書方針や他の蔵書との兼ね合いで総合的に専門家(職員)が検討すべきことであり、ボーイズラブの図書だけを特定の嗜好・倫理観を元に排除、規制することにも反対します。まして受入済の資料を規制するのはかなり強い理由がなければやってはならないことです。ボーイズラブを不快に思う感覚は、読書の自由よりも優先されなければならないものだとは思いません。

 もうちょっと詳しく書いておこう。
 まず前提として、図書館は多様な見解の資料を受け入れ提供することで、国民の知る自由を守るためにある。資料を除去するのは人権やプライバシーを侵害するもの、わいせつであるとの判決が出たもの、寄贈者が非公開を希望した寄贈資料だけだ。
この件に興味を持った人間はhttp://wwwsoc.nii.ac.jp/jla/ziyuu.htmくらい読むべきだろう。


 ゾーニングをこの件で持ち出す人間がやたらにいるが、それは萎縮効果が高く、やるべきではない。少なくとも日本の有害図書運動の際やアメリカの同性愛資料の排除に対して両国の図書館界はそうした制限に反対してきた。
 理由は簡単なもので、まずそうした資料に害がないから。そして規制―特にジャンルに基づく規制や成人部門への移動といった規制―は萎縮効果が高く、読書の自由を奪うからである。大体、子どもの読書利用を指導するのは親の義務・権利であって図書館はあくまで制限を最小限にすることを基本としている。そうしなければ、同様のあらゆる理屈で個人、団体、政府による検閲、規制が可能となるからだ。図書館は思想善導の道具ではない。情報提供の場だ。


 もしゾーニングしろというならBL小説に害があることでも実証してもらわなければ話にならない*1。絵がセクハラだという主張にしても、図書館では小説の表紙絵は「嫌でも目につく」ように展示される可能性は低い。表紙や内容に対する不快感を元に読書の自由を守る図書館に対して除去や制限をしろと主張するのは勘違いも甚だしい。
 「自分で買え」だの「ゾーニングしろ」だのといった意見は、結局BL小説を価値のないもの、嫌悪すべきものとして当然だとする認識が根底にあるのではないか?それは単なる一方的な価値観の押し付けにすぎない。少年向けライトノベルはそのままで良いのに、BL小説は問題があるなどというのは、単なる偏見に基づいて検閲を推奨しているのと同義である。ハリーポッターシリーズを図書館から排除しようとするキリスト教右派と何も変わらない。


 図書館資料の多様性という立場から大量のBL図書を批判する余地はあるが、その場合他の資料の傾向はどうなのかという検証が必要だ。また、こうした批判に対しては、特殊な分野の資料の集合はそれ自体価値があるので提供・保存する意義があるとの反論も可能だ。大体、あえてBL小説を問題視する人間は、資料の多様性なんかに興味はなく、自分の倫理観を図書館に反映させたいだけではないか?


 ともかくネットにやたら検閲好きがいるというのは頭の痛い話だ。
(2008-11-12追記)
id:Thscさん。少年向けライトノベルとBL小説は、同じです。そんな性的表現の有無など図書館では本来何も問題ではありません。では例えを変えましょう。図書館の自由の原則に従えば、岩波ジュニア新書を置くことが規制されないのと同様、BL小説が規制されないのだと。上で少年向けライトノベルを例に出したのは、単に堺市での所蔵冊数が問題となったBL小説の所蔵冊数に近いから、そして読者年齢層が近いからです。
 性的だろうが残虐だろうがゾーニングなどせず、自由に利用できるのが図書館の原則です。ただし、今回の一件のように(そして過去の数多の先例のように)これは達成困難な理想でもあります。

*1:たとえ害があっても規制を最小限に留めるのが図書館のあり方である。そして規制、利用制限をする場合はジャンルごとではなく、個々の本に対して検証・規制の手順がなされるべきである。ジャンルで全部十把一絡げに規制できると思うなよ。