ある懐疑論者が育つまで

 最近、いくつかのブログで科学コミュニケーションの話題から、いかにトンデモ情報から脱したかの経験を記すことで何らかの参考となるプロセスを示すという話が生まれた。


発端 メモ:サイエンスコミュニケーションと科学者/研究者/専門家に何を求めるか問題 - 誰がログ
ばらこさんの提案 サイエンスコミュニケーションで素人にできることを考える(改題)(2) - ばらこの日記
TAKESANの事例 或るトンデモ支持者の履歴――科学的懐疑主義に目覚めるまで(2011年7月19日追記): Interdisciplinary
どらねこさんの考察と事例 サイエンスコミュニケーションで自分なりに考えていること - とらねこ日誌
lets_skepticさんの事例 信奉者だった僕はどのようにして懐疑論者と呼ばれるようになったか - Skepticism is beautiful



自分も色々と思うところがあるので書いてみる。

少年時代の超常現象

世代によっても差があると思うが、小学生くらいまでの時期にオカルト、超常現象といったものを本当の事だと認識することは珍しくないだろう。
 どの程度のめりこむか、あるいはどのようなメディアと接して情報を得るかというのが問題となる。
 例えば私の世代では、何よりテレビの影響は大きかったが(それこそ水曜スペシャルの世界だ)、他にも学研の科学と学習もその手の記事をよく載せていたし(超古代史、超能力、霊など)、ひみつシリーズにも『いる?いない?のひみつ』という『ムー』の読者育成のためにあるような本があったものだ。また、この種の情報を元にした口コミの影響もあったと思う。
 私はこの種の話は好きで、信じている向きもあったが、それで生活・信条を左右するほどのめりこんでいたわけではない。私のように漠然と面白がっていたという人は、結構多いのではないだろうか。

超常現象→ニセ科学への影響のシフト

 超常現象という話題は、思うにかなり個人的な体験に依拠していることが多い(いわゆる霊感がある、といったものも含む)。その種の現象を(それが誤解であることが多いのだが)実際に体験した、あるいは体験したいと思う人はのめり込むが、大半の人は年齢とともに超常現象からは離れていく。超常現象の話題というのは、公的な場ではほとんどなされないのも理由の一つだろう。
 逆に影響から抜けにくいのがニセ科学だ。インチキな栄養学の影響、血液型性格判断など、かなり幅広い世代に広がっていて、学校、職場といった場でも普通に会話に登場し、信じられている。私も相当長い期間、特に栄養・健康に関する俗説は信じ込んでいた。
 一般的な話はさておき、私は中学生の時にマーチン・ガードナーの『奇妙な論理』に出会った。この本は、胡散臭い話としての超常現象・ニセ科学といった話をかなり幅広く批判的に紹介しており、その点が興味深かった。以来、多少懐疑的な情報を求めるようにはなった。
 だが、この本で扱われていないようなニセ科学についてまで懐疑的になったかというと、そんな事はなかったのである。これは、カウンターとなる情報がない状態では何が信頼のおけない説か、ほとんど判断できていなかったためだ。
 その後『ハインズ博士「超科学」をきる』といった海外の懐疑主義の著作を読み、更にそれより後に『トンデモ本の世界』に始まる一連のシリーズも読んだが、いずれもカウンター情報として成立していても、私の認識をそれ以上深めていくには限度があった。例えば『美味しんぼ』で語られるようなレベルの天然信仰、農薬忌避などを疑うようになるのはもっと後のことである。


 余談。今調べたらハインズ博士再び「超科学」をきる - 株式会社 化学同人という本が2011年8月に出るとのこと。みんなも買おう。

基礎知識とプロセス

インターネットでの血液型性格判断への批判でも一部あることだが、信頼性の低い説を批判しているからと言って、その批判が正しいわけでもない。結局のところ、各々の論拠をしっかり判断するにはその説を成り立たせているデータや調査・研究プロセスといったものへの理解が必要である。そして、そのプロセスと密接に関わる基礎知識(科学や統計など)も必要である。
思うに、クリティカルシンキングwikipedia:批判的思考)の限界もそこにあるし、日常会話のレベルで特定のニセ科学を何となく信じている人の考えを覆すのが難しい理由の一つも、そこにある。私の経験では、基礎知識とプロセスへの理解なんて話は、日常会話で話すには厄介な話題で、カウンター情報を提示してもせいぜい「どっちもどっち」「本当のことは分からない」「科学は万能ではない」といった辺りで話が止められ、認識が全く変わらない。
私自身が基礎知識やプロセスといったものまで留意するようになったのは大学生の頃の話で、既に多くの懐疑論を(出版物、Webで)見るようになってからだ。それも一気に認識が変わったのではなく、多くの情報、議論に接して次第に積み上がっていったものだ。いわゆる超常現象やニセ科学といった議論よりも、講談社ブルーバックスの『背信の科学者たち』のように科学の不正についての本のほうが勉強になった。
 もう一つ役立ったのは、歴史修正主義に対する批判である。海外の懐疑論の本では、しばしば歴史修正主義もトピックとして扱われる。日本では研究者による著作が多いが、テーマがテーマなだけにネットを含め幅広く議論も盛んで、情報の信頼性をどのように判断し、どのように論拠を考えるかといった点は非常に勉強になった。

広がる話題

 元々懐疑論の題材として超常現象、ニセ科学陰謀論偽史といった領域の情報は集めていたが、より多くの情報収集をするようになったのは、『水からの伝言』に代表されるニセ科学批判の議論が盛り上がる少し前からである。
 この頃から多くのブログ、SNS等でニセ科学の情報が得られるようになった。昔は自分で情報収集していたが、それ以降はニセ科学やデマ、陰謀論に興味がある人経由で情報を見ていることが多い。
最近の動向を見ると、分かりやすいデマへの批判はそれなりに人目につくが、それにしても一度広まったニセ科学の説は否定的な言説が伝わりにくい。私が報道や福島の知人から知った範囲でも、福島原発の事故の後、どれだけいい加減な放射能対策のインチキが福島に流れてきたか分からない。ニセ科学問題の対応の難しさを改めて実感している。