今回は中国の軍隊格闘技に影響を与えた中ソ国境紛争の戦闘について、雑誌Kempo Magazineに掲載された記事(英文)を元に紹介しよう。
中ソ国境紛争の伝説
この記事を書いた著者Mizhou Huiは中国軍の軍隊格闘技としての拳法である散手について本を書いており、今回の話は中国軍特殊部隊の士官である著者の師から伝えられたものだという。記事では中ソ国境紛争についての紹介から始まっているが、wikipedia:中ソ国境紛争のほうが分かりやすいだろう。ここでは紛争そのものについての紹介は省く。
1969年に起きた中ソ国境紛争では、本格的な戦争ではなく紛争だったためか、中国軍・ソ連軍が互いに非武装のまま戦闘を行うことが頻発。こうした戦闘は「グループ・ストリート・ファイト」として知られるようになった。
中国はこの非武装戦闘に対処するため、第49野戦連隊を送り込み、指導のため特殊部隊のインストラクターを据えた。特殊部隊隊員は人民解放軍の1963年版の徒手格闘マニュアルにしたがって訓練を行い、やがてソ連の国境警備隊を非武装戦闘で破ることができるようになったという。
この状況に対処するため、ソ連も特殊部隊を派遣することを決定した。中ソ互いの面子をかけて非武装での戦闘が加熱していったのである。非武装戦闘のために送り込まれたソ連軍特殊部隊の隊長は「跛足の中尉」(瘸子中尉)と呼ばれており、訓練で足首の腱を痛めたことから片足をひきずるように歩くためそう呼ばれていた。
「跛足の中尉」はその足にも関わらず傑出したボクサーであり、多くの中国軍兵士が鼻を折られた。このため当時中国軍では「戦いで跛足の中尉と出会ったら、未来の妻を探すのはあきらめたほうがいい」という冗談が広まったほどだという。
こうしたソ連軍による西洋のボクシングの技術(特にジャブ)は中国軍に影響を与えた。中国軍兵士は当時の中国軍の徒手戦闘マニュアルに基づき、リアハンドを鼠蹊部の防御のため下げていた。
だがそれではジャブを防げない。そして、冬季の戦闘では衣類と地面のせいで蹴り技が使えないことも判明した。こうした事から、後にボクシングの技術が中国軍の格闘技術に導入されることとなった。また、ボクシング・レスリングの技術の導入から体格の大きな兵士が特殊部隊に加わる傾向が増えた。その後、レスリング技術とよく訓練された背後からの攻撃が「グループ・ストリート・ファイト」で有効であることがわかり、やがて中国軍兵士の小さな体格・力を補う訓練プログラムが開発された。
しかしそれは先の話である。さしあたってソ連軍との非武装戦闘の対策が中国軍には必要だった。有効な対策を思いついたのは下士官の一人で「小山東」と呼ばれた男である。彼は刀法に優れており、刀の代わりに棒を使って戦うことを進言した。棒であれば銃火器のような武装とは思われないし、上着に隠し持つことができる。この棒の導入により中国軍はソ連軍との「グループ・ストリート・ファイト」に勝つようになった。その後ソ連軍も棒を使うようになったが、ソ連軍の棒の技術は中国軍より劣っていた。こうした戦闘ではソ連軍が発砲し、火力を用いた戦闘にまで及んだこともあったという。ある非武装戦闘の際、小山東によって腕を怪我した跛足の中尉は拳銃を抜き、彼の部隊を守るために発砲し始めた。やがて双方重火器まで用いた戦闘になり、多くの兵士が血の海に沈んだが、小山東は7発の銃弾を受けながらも生き残った。彼は後に勲章を授与され、第49野戦連隊でそのエピソードを語っている。跛足の中尉は激化した紛争の中、戦死したという。
この記事の逸話がどこまで本当のことかはわからない。他で実話ではないとの指摘を目にしたこともある。その指摘も根拠は書いていなかった。
裏もとれないので、「こんな伝説もある」くらいに考えてほしい。しかし面白い話なので、どこかで映画にでもしてほしい。