ニセ科学と図書館分類の判断

ここ数日、ニセ科学の本をどう分類するかについてはてなブックマークで話題になったので、それに関して書いておく。

前提として

まず、図書館の分類は主題の正誤や善悪の価値判断を示すためのものではない*1。科学的に正しいかどうかによって分類を「自然科学」からはずすかどうかを決めたりはしない。
そうした判断を取り入れると、政治・思想・宗教あるいは科学的な異論を含め、無数の介入、バイアスの存在を許すことになるからだ。図書館ではID論の図書をキリスト教に分類せず、進化論の本として分類するし、偽史資料に基づいた歴史本もフィクションではなく歴史に分類している。ニセ科学の本だから自然科学の分類ではない分類にする、という単純な判断はしないし、すべきではない。
しかし、分類を検討しなければならない場合はある。

判断をする例

図書館が全く内容の判断をできない・しないというわけではない。何かを偽装したものに関しては、一定の判断をすることもある。
例えばハラルト・シュテンプケ『鼻行類 : 新しく発見された哺乳類の構造と生活』という本がある。

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

これは架空の動物について書かれた虚構の話だ。しかし虚構であることがちょっと分からないように作られている。言わば知的楽しみとしての偽装といった感じの本である。内容だけ見れば動物学の本だ。このため動物学として分類している図書館が多い。だが、この本を9門の文学に分類する図書館はあるし、 そうした判断をしてはいけないとまで言えるかどうか*2。『鼻行類』は図書館では絶対に動物学として扱うべきだ、とまで言える司書はまずいないだろう。


また、こうしたフィクション以外ではタキオンパワーについての本という例もある。
タキオンとは物理学の世界で超光速で動くと仮定されている粒子であるが、このタキオンのエネルギー、パワーを封じ込めたと称するインチキ商品があり、その商品の宣伝本がいくつか出版されている。こうしたインチキタキオンの本に宇宙物理学や素粒子といった分類が付与されていることはほとんどない。内容は物理学を装っていても、実質は健康商品・開運商品の本であり、ほとんどの場合民間療法に分類されている。


こうした、何かを偽った、あるいは誤認させるテーマの資料の扱いは、個別に見て判断する他ない。何かを偽装した本というのは、テーマが複数ある場合もあり、そうした場合に学術的・科学的な通説に基づいて分類するということもある。
もちろん偽装かどうかという判断をせず、本が謳っているテーマをそのまま分類にするという考え方もあるだろう。

知識、科学リテラシーの問題もある

しかし以上のような例についても、資料のテーマをちゃんと理解した上で字義通りに分類する・意図的に分類を変えるといったように、検討の結果決まったものかどうかは疑問もある。
鼻行類』を動物学と分類した図書館は、この本がフィクションであると知った上であえて動物学にしたのか。
タキオンパワーの本を民間療法と分類した図書館は、そもそも物理学のタキオンについて知っていたのか。
ニセ科学の分類問題で俎上にあがった『水からの伝言』についても、この本がスピリチュアリズムをテーマとしている事を知らずに物質化学の水に分類している館もあるのではないだろうか。
内容を理解した上で決定しているなら、それはそれで一つの考え方だが、単に誤認しただけの可能性、他の組織の分類を真似ただけという可能性はある。

考えるきっかけとして

ニセ科学の本だから自然科学からはずす、という単純化した考え方の運動には反対だが、当初問題になった『水からの伝言』や『水は答えを知っている』といった本を「147 超心理学、心霊研究」とするのは一定の妥当性があると考えている。あの本の内容はスピリチュアリズムが中心だからだ。実際に読めば、本の主題が水の特性や写真ではなく、スピリチュアル・メッセージ部分であることは分かる。
以前私が書いた今こそホメオパシーの図書館分類を見直す時 - 火薬と鋼ホメオパシーの例もそうだが、より適した分類や件名があるにも関わらず誤認・誤解が定着してしまうこともある。ニセ科学のように誤認させる内容の本では、こうした問題は起こりやすいと考えていい。ただし、あくまで考えるきっかけであって、一律に変更するものではない。
ニセ科学の分類問題というのは、科学とニセ科学を切り分ける判断を図書館司書がするのではなく、資料の主題の検討をちゃんとしているかどうか、再確認するものとして意義があると思う。


<2013-02-09追記>
この件の分類変更に反対している人の意見を読むと、そもそも問題の本を読んでいないのではないかと思える。
この問題を追っていない人のために書くと、以前ニセ科学本として話題になった『水からの伝言』や『水は答えを知っている』といった本の図書館分類を自然科学領域ではなく「147 超心理学、心霊研究」に変更してもらう、という動きがあったので、その時の話が前提になっている。
問題の本は、タイトルを見ると水の本と考えて良さそうだが、水の本であるというより「波動」とそれによるスピリチュアルな内容を中心とした本でもある。この場合の「波動」は科学用語の波動ではなく、オカルト用語の波動である(両者は別物で、Wikipediaでも項目は別)。同様に江本勝『水が答えた「日本の宗教」』や『水が答えた「般若心経」』といった図書があるが、これらの国会図書館の書誌レコードの分類が水でも宗教でもなく147と記述されているのも、それが波動をテーマとしているからと考えられる。書名だけで判断すると誤る。
これは、沖浦和光『竹の民俗誌』(岩波書店、1991)という本を例に考えれば分かりやすい。この本は、国会図書館を含め多くの図書館で民俗学の中に分類されている。植物学の竹には分類されていない。要するに「竹」ではなく「〜の民俗誌」に当てはまる内容をテーマとして見ている。これと同じことで、『水からの伝言』や『水は答えを知っている』といった本も、「水」ではなく「〜からの伝言」「〜は答えを知っている」という部分に当てはまる内容がテーマと考えられるのだ(これは分かりやすくするための視点の例で、実際にはタイトルの語句だけでテーマを判断しているわけではない)。
ニセ科学を扱った本は科学用語のようでいて実態は違ったり、タイトルと内容が違ったりして、複数の分類可能性がある。どちらに分類するかは内容を理解して判断する必要がある。この件が話題になった当時、本を読んだ事がないのに分類に賛否を示す人がいたが、それは論外だ。

*1:分類法がそういう作りになっていない

*2:同様の例として架空の植物を解説したレオ・レオーニの『平行植物』がある。この本は大抵は文学に分類されている。