「関ヶ原でメッケルは西軍が勝つと言った」件

メッケルが関ヶ原の布陣図を見て「西軍の勝ち」といったのは創作の疑いがあるという話と当時の混乱した状況 - Togetterを読んで気になったので、ちょっと書いておく。私の記憶では司馬遼太郎より前の海音寺潮五郎の著作に同じ内容があったからだ。図書館で借りて改めて内容を確認するのに時間がかかった。


さて、歴史小説作家が史料を都合よく引用したり無視したり歪めたりというのはよくあることだ。程度によっては読者を騙して嘘を広めている迷惑な話とも言える。その一方で、そうした操作があったほうが面白いというのはありうることだし、小説を歴史の知識の元にする読者の態度も批判されるべきだろう。また、読者が騙されるのはある程度しょうがないかもしれないが、自分で調べもせずに司馬の話を孫引きしているプロの物書きもいるわけで、そちらはフォローのしようがない。


今回の件については、次の三つの可能性がある。
・メッケルが実際にそうした発言を行った記録や伝聞があり、それが利用された。
・メッケルがそうした発言をしていないにも関わらず記録や伝聞があり、それが利用された。
・全く記録がないにも関わらず、そうであるかのように作家に創作された。
この他、典拠があったとしても潤色されている可能性もある。
ともかく、この話を司馬遼太郎がどう書いていたか、引用してみよう。

(前略)
メッケルは参謀教育をするのについては現地へ行くのです。これが当時のドイツふうですね。古戦場へ行く。古戦場で最大のものは関ケ原です。関ケ原へ参謀たちを連れていって、メッケルが統裁官になり、参謀を石田方や徳川方にさせて作戦の訓練をするわけです。その時メッケルはさほどの予備知識なくして関ケ原盆地へ入っていったのです、両軍の配備地図だけを持って。両軍の配備地図というのはもう徳川期にできておりましたですからね。メッケルはそれをじっと見ていて、「石田方の勝ち」とまず宣言したわけです。
誰が見ても石田方の勝ちなんです。先にふれましたように、石田方は大垣から夜行軍によって戦場に先着していた。それ以前から到着していた部隊もある。それぞれが丘陵のいいところに場所を占めており、その丘陵たるや、東軍が赤坂から入るには一つしか道がない。赤坂というのはやや低い土地で、その低地から大げさにいえば登るようにして二列縦隊ぐらいで東軍が入ってこなければならない。これでは袋のネズミになるわけであり、部署からいえば、まさに石田方の勝ちなのです。
ところが、当時の参謀―日本人将校たちが、いや、そうじゃないんです、石田方が負けたのです、といっても、メッケルはそんなバカなことがあるか、これは石田方が勝ったのだ、といいはってきかなかったらしい。
しかたがないので当時の政治情勢と徳川家康の威望を説明したわけです。家康が戦う前にすでに一種の世間の機運と自分の威望を計算しつくして、敵に対して内部工作をしていたこと、そして裏切り、もしくは戦場で中立をとる者が続出するであろうという期待を持っていたし、その手もうっていた―それで結果がメッケルの考えたのと違うことになったのだ、と説明したのですね。
するとメッケルはすぐに、ああ、わかった、政略は別だ。純粋に軍事的にみれば石田方の勝ちだが、その上に政略という大きな要素がのればこれはまた別だ、といったという話です。


司馬遼太郎関ケ原私観」(『歴史と風土』所収)より

歴史と風土 (文春文庫)

歴史と風土 (文春文庫)



私はこの文章をかなり以前に読んだ記憶があり、小説『関ヶ原』と同時期くらいの発表だと思っていた。つまり1964年(昭和39年)7月から1966年(昭和41年)8月の連載時期と変わらない頃だと思っていたが、改めて確認するとこの話は昭和46年11月9日の談とされており、だいぶずれている。ただし、このメッケルの話を知って関ヶ原について面白いと思うようになったのは「昭和三十年代のはじめのころだったでしょうか」とある。


この司馬の話が公になるより前にこの件ついて書いた人がいる。海音寺潮五郎である。
『武将列伝』(昭和34年〜昭和38年に連載)の中の「石田三成」の回にこのように書いている。

関ガ原*1の戦は負けるべくして負けた戦争だ。明治年代にドイツの有名な戦術家が日本に来て、関ガ原に遊び、案内の日本陸軍の参謀から、両軍各隊の配置・兵数を聞いて、
「これでどうして西軍が負けたのだろう、負けるはずはないのだが」
と不審がったところ、参謀が戦い半ばに小早川秀秋が裏切りしたことを告げると、手を打って、「そうだろう、そうだろう」と言ったという話がある。ぼくはこのドイツの戦術家の説を信じない。兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄だと思っている。小早川秀秋の裏切りが決定打になっていることは事実だが、敗因は他に無数にある。それはすでに述べた。そしてその根本は、重ねていう、三成の不人気にあり、それは三成の陰険な性格と人心洞察力の鈍さの当然の帰結であると。


海音寺潮五郎石田三成」(『武将列伝 戦国終末篇』所収)

新装版 武将列伝 戦国終末篇 (文春文庫)

新装版 武将列伝 戦国終末篇 (文春文庫)



海音寺の書いた話と司馬の書いた話ではかなり違いがあり、絶対に同じであるとは言い難いが、共通点もあって元は同じ話と考えられる。
いずれにしても、これだけでは誰が最初に広めた、あるいは創作したかどうかは断定できないが、何らかの参考になるかもしれないのでエントリとしてまとめた。

*1:実際には海音寺の「関ガ原」のガは小文字。