「わざ言語」と武術


六葉[twitter:@h_rokuyou]さんのこのツィートに関連して、イメージによる指導と「わざ言語」について書いてみよう。
「わざ言語」とは客観的な科学言語と異なり、比喩を用いて学習者にある望ましい動作を生じさせることを目的とした指導の言葉である。
認知科学を元に伝統芸能の伝承、スポーツの指導などの分野の研究で使われている。この「わざ言語」に関する研究では生田久美子がよく知られている。
次の本が有名だ。

わざ言語によって指導者のイメージを生徒に伝えることの有効性や意義についてはまだまだ研究途上といった感じだが(私見だが、わざ言語に関連する様々な用語の定義もまだ結構怪しい)、スポーツの世界で検証している研究はいくつかある。
ちょっと参考になりそうな部分を引用してみる。

本研究の主な成果として,下記の点があげられる.「わざ」言語の生起場面では,学習者の動作結果について指導者が提示する婉曲的なフィードバックにより,学習者は自身の持つ動作感覚と運動感覚をもとに,課題とする動作の本質的な理解を手探りで深めつつ,新たな運動図式を組み替えていくという作業を行っている.また,修辞的な言語を用いたいわゆる比喩表現によってスキルに関わるフィードバックを得た選手は,比ゆ表現の中で伝達を意図されている動作の根本原理(例えば,遠心力を利用した姿勢や動作構成のあり方)についてのイメージと大きく関連する感覚を,自身が持つ記憶の中から検索し,再構造化することにより,複雑な動作を1つの動作図式として組みかえるといった作業を行っている.以上のように,修辞的なわざ言語は,選手の動作イメージの活性化につながり,その結果,選手がこつをつかむことに貢献している一連の構造が明らかとなった.


KAKEN — 研究課題をさがす | スポーツの「わざ」習得に作用する有効な指導言語の分析 (KAKENHI-PROJECT-14580010)

裏を返せば、学習者の身体感覚にアピールし、わざの本質をヴィヴィッドに衝くような指導言語、すなわち、「わざ言語」が比喩的な表現をもっぱらとするのは、そうした言語表現こそが、生徒の主体的な関与を許容するとともに、むしろそれを促す機能を果たすことができるからであるとも考えられる。仮に、練習や稽古が、すべて分析的な指導言語のみで行われるとしたらどうであろうか。それでは、生徒の動きはまるで機械的な反復や〈なぞり〉に終始することになり、型の体得はおろか、諸細目が統合されるということもなく、したがって、表現の個性やバレエに求められる芸術性もまた決して生じることはないであろう。


柴田庄一, 遠山仁美. 技能の習得過程と身体知の獲得 - 主体的関与の意義と「わざ言語」の機能 -. 言語文化論集. v.24, n.2, 2003
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/7994CiNii 論文 -  技能の習得過程と身体知の獲得--主体的関与の意義と「わざ言語」の機能

以上の研究では、多くの場合こうしたイメージ、比喩を伝える言葉が有効に機能しているかどうかを見ているが、逆にこうした言葉が有効に機能しない可能性についても考えられる。
わざ言語が機能するには、指導者と生徒の身体感覚のイメージの同調、調節が必要である。
指導者と生徒の関係性、コミュニケーション、身体知によってわざ言語が共有されるものである以上、当初その言葉が発せられた指導の場やコミュニケーションから離れた言葉は、わざの習得に有効なものではなくなる可能性が当然考えられる。イメージや比喩が指導の実際の場から離れて伝わった場合、身体感覚のイメージは伝わりにくくなるだろう。