堺市の南蛮橋の南蛮人像について

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別冊 日々の与太 » 本日の堺散歩/よくわからない南蛮人
別冊 日々の与太 » 本日の堺散歩/よくわからない南蛮人、その後
気になってネットを調べたが、あまりはっきりとした情報はなかった。
こういう地域の橋や像についてはネットでは分からないことが多い。
そこで、新聞記事データベースで調べてみた。
その結果、朝日新聞2013年1月10日朝刊の大阪市内・1地方面にこの像の正体を追った記事がみつかった。その記事から必要な部分を引用してみよう。

(大阪の実は…:8)堺の歩道橋に謎の南蛮人像!? /大阪府


南海堺駅堺市堺区)の南側にある歩道橋「南蛮橋」。長さ33メートル、幅4メートルの橋の中央部に謎の大男の像が建つ。
身長は190センチはあろうか。あごひげをたくわえた彫りの深いマスクだ。中世の西洋人風にひだを重ねた襟と重厚なマントに身を包み、欄干に両手を置いて市街地を見つめる。だが、辺りには名前や由来を刻んだ銘板は見あたらない。
(中略)
橋の男は腰にサーベルを差しているから、ザビエルではないのだろう。ただ、橋の名前からも「南蛮人」をモデルにしたのは間違いなさそうだ。
堺市の外郭団体、堺都市政策研究所が2007年にまとめた「堺市におけるモニュメントに関する調査報告書」にこの像が紹介されているという。謎は解明されたか、と期待してページをめくって見つけた。
作品名は「南蛮人」。そらそうやろ。
さらに、アルミ鋳物で、南海本線の高架化に伴い1987年に設置された、とある。新たに分かったのは設置年だけだ。由来に関する記述はないのか、と研究所に尋ねてみたが、峯正彦事務局長は「そこまでは調べていないですね」。


ならば、と像を作った当時の資料を引き継いでいる市道路計画課に聞いた。「昔の話なので資料はあまり残っていません」と言いながら、課長補佐の根兵(ねひょう)直樹さん(45)が市役所地下の書庫で3時間かけて探したというB5判のファイルを見せてくれた。そこには、「都市景観の向上を図るように橋のデザインを工夫している。たとえば(略)16世紀ごろ南蛮貿易、南蛮文化が栄えた歴史的背景にちなんで、南海電鉄が等身大の南蛮人のモニュメントを設置している」と手書きの文字が並んでいた。
大男が、特定の人物をモデルにしたものではないというのは想像出来た。でも、それ以外の新事実は無い、と思いきや、一番下に「南蛮人ポルトガル人」という走り書きがあった。さらに、当時の南海電鉄社長が堺市長に宛てた像の「引き渡し書」もある。
ははーん。男の「国籍」は判明した。でもいったい、何のために立っているんだろう。
「それには理由があるんです」と話すのは、橋の完成時に市の担当係長だった正木博明さん(62)。「両手を欄干の上に置いているでしょう。実は、法律上は像じゃなくて欄干の一部です。道路法では、標識やさくなどの道路付属物以外のものは原則として置いてはいけないからね」
正木さんによると、南蛮橋は南海堺駅が高架化で約200メートル北側に移転することを受け、新しい駅と従来の南口駅前広場をつなぐ歩道としてつくった。話題性を持たせようと正木さんら担当職員が議論の末に考え出したのが、触れることができる南蛮人像を橋の上に置くことだった。
だが、実現するには道路法の規定をクリアしなければならない。市が道路占用許可を出せば像を置くことは可能だが、像を市がつくるための予算は査定で削られてしまった。そこで正木さんらは南海側と話し合い、建設費を負担してもらう代わりに完成後は欄干として市が管理する――案を編み出したという。


ところで、像の作者はだれなのか。市の資料にあった東京の制作会社は社名が変わり、大阪の営業所はなくなっていた。当時社長だった前田八重美さん(81)は「モニュメントの原形は当時、芸大の学生アルバイトがつくっていた。だれが担当したのか、記録は残っていません」。
(後略)

「大阪の実は…」は2013年1月に朝日新聞大阪版で全9回掲載された記事だ。
大阪の地域性の強い疑問を追うシリーズで、各回の見出しは以下の通り。
福娘さん、福来た!?』、『せかせか早足「いらち」健在!?』、『太陽の塔「第4の顔」はどこ?』、『家康公討ち死に、堺に眠る!? 南宗寺史「堂下に遺骸」』、『「粉もん好き」面目丸つぶれ!? 小麦粉購入量、最下位』、『河内はキリシタンの聖地!? 「城主ら洗礼」文献に盛時』、『「清水の舞台」天王寺にも!?』、『堺の歩道橋に謎の南蛮人像!?』、『ビリケンさん、幸せくれた!?』
各記事によって書いた記者は異なり、南蛮人像を調べた第8回の記事の記名には森嶋俊晴とある。
南蛮人像設置の経緯について関係者に取材したこの記事以上の情報はなさそうだ。