最近Twitterで武術と「見て盗め」という指導形態について話題があって、そこで出てきた話について紹介する。
我乱堂(@SagamiNoriaki)さんのツイートに次のような話があった。
『美術という見世物』って本で、岡倉天心が美術の学校作った時、仏師を招聘して指導を乞うたんだけど、弟子はとったことあるけど生徒に教えたことはないって断って、だけど天心は「いつもやってる仕事を生徒の前で見せるだけでいい」と説得したとかいう話載ってましたわ。
— 我乱堂 (@SagamiNoriaki) 2018年11月13日
この仏師というのは高村光雲のことで、この時のやりとりは高村光雲の『幕末維新懐古談』にも登場する。
その記述によると、1889年(明治22年)3月、高村光雲は彫刻家の竹内久一の訪問を受けた。竹内久一の話は、岡倉天心の希望で光雲に東京美術学校の彫刻科の先生になってほしいとのことだった。光雲はその仕事を受ける気はなく、話の流れで岡倉天心に直接断りを伝えることになる。そこで天心は次のように光雲を説得したのだという。
岡倉氏の説明するところはなかなか上手いので、私に嫌といわさないように話しを運んでいられる。氏はさらに言葉を継ぎ、
「それで、あなたがお宅の仕事場でやっていられることを学校へ来てやって下さい。学校を一つの仕事場と思って……つまり、お宅の仕事場を学校へ移したという風に考えて下すって好いのでそれであなたの仕事を生徒が見学すれば好いのです。一々生徒に教える必要はないので、生徒はあなたの仕事の運びを見ていれば好いわけで、それが取りも直さず、あなたが生徒を教えることになるのです」
(高村光雲 幕末維新懐古談 学校へ奉職した前後のはなし)
では今ある仕事を片付けたら、という条件を出した光雲に対して天心は学校でその仕事をしてもらいたいということで学校に光雲の仕事場を作るとまで言い出し、再度同様の説明が登場する。
「(前略)現在、学校にも木彫科の方は一切教科書と同様の木彫りの手本がありません。竹内さんともいろいろ相談をして、どういう風にしたらということを研究中でありますが、まず何より、差し当ってあなたに学校へ来て頂いて、仕事をしておもらいすれば、それこそ、それが生きた教科書であるから、これに越した授業の方法はほかにあるまいと、実は竹内氏もあなたを推薦されているわけなので、私たちは、あなたにこがれているので、どうか学校のために一つ御尽力を願いたい」
(高村光雲 幕末維新懐古談 学校へ奉職した前後のはなし)
このやり取りからは学校という形式に合わないであろう光雲の経歴や背景への配慮だけでなく、指導のための教科書・手本が整備されていない当時の東京美術学校の事情が伺える。