真剣勝負で刃毀れの破片が額に刺さる話の元を辿る

池波正太郎は『堀部安兵衛』『鬼平犯科帳』『剣客商売』といった複数の小説で、切り合いの後に刀の細かな破片が額にめり込んでいてそれをほじくり出す場面を書いている。
このようなことが実際に起こることなのか、疑問に思う読者は以前からいて、時折ネットでも話題になる。
この描写について池波は随筆『小説の散歩みち』で剣道をやっていた時に師匠から聞いた話を元としている。

この後、安兵衛は、江戸の東郊・柳島村へかくれて、事件後の成りゆきを見まもっていたというが、このときのシーンで、決闘の翌日、安兵衛が手鏡に自分の顔をうつし、酒で洗ったぬい針で、わが顔面へめりこんだ刃の細片をほじり出すところを私は書いた。
これは……むかし、私が剣道をやっていたとき、師匠から聞いた〔はなし〕の中で、真剣をつかっての型を演じたとき、たがいに打ち合う刃と刃が、その刃の細片を飛び散らせ、これがひたいへのめりこんだことがある……というのをおぼえていて、小説につかったのだ。

池波正太郎『小説の散歩みち』(朝日新聞社, 1987))
小説の散歩みち - 国立国会図書館デジタルコレクション

池波の剣道の師匠の話と同様の話が『一徳斎山田次朗吉伝』(故山田師範記念事業会, 昭和6)にある。
同書には大正6年正月、一橋道場の道場開きで山田次朗吉と柳廣哲が直心影流の小太刀の型を真剣でやった際の逸話として次のように書かれている。

仕合終了後、先生の額に刀刃の細片か数多メリ込んでゐるのが發見せられ、それを一つ〱ほじ出されたそうである。
(故山田師範記念事業会編『一徳斎山田次朗吉伝』(故山田師範記念事業会, 昭和6))
一徳斎山田次朗吉伝 - 国立国会図書館デジタルコレクション

他で似たような逸話・体験談を見たことはなく、山田次朗吉のかつての剣道界における知名度の高さから考えても、これが池波正太郎の師匠の話の元なのだろう。
額に刃の破片が多数刺さったのはあくまで剣術の型の結果であり、果たして真剣勝負で同じようなことが起きるのかどうかは定かではない。
また、この時の演武ではないが、山田次朗吉の演武について、山田の弟子の大森曹玄が次のように語っている。

また、こんな思い出もあるという。震災のあとで、商科大学が小平市に移った。それを記念する意味もあって、旧武道場で山田先生が奉納演武をやった。
大勢の観客を前にして、剣道部委員長の大西英隆を相手にして、直心影流の形の一つである"刃引き"を、真剣で演じたのである。
すでに校舎は移転したあとで、電灯がつかなかった。もう夕方だったので道場の中は薄暗くなっていた。演武の真剣がふれ合う度に、パッ、パッと火花が散って、観客はそれに見惚れていた。しかし大森は、それを見ながら先生は演出をやっているなと思ったという。こう回顧している。
「私はあれは、山田先生が見て呉れをやった。刀を真正面から打ち合ったら火花は散らないはずだ。刀を斜めに使ったから、両者の太刀がカチと打ち合うのだ、それは観客に媚びた演武だ、薄暗いですから打てば刃がこぼれる。こぼれれば鉄片がピーンと火花になる。その見て呉れをやった。真直ぐ打てばスウーと、刃もこぼれない。火花も散るはずがない。刃を曲げて打った」
山田先生自身も、気がとがめたらしく、翌日、訪ねて行った学生たちに、
「タべの刃引きでどうだったかな」
と感想をきいたあとで、こう聞き直したというのである。
「大森君は何と言ってたかな」と。

(杉崎寛『現代武道家物語』(あの人この人社, 1982))
現代武道家物語 - 国立国会図書館デジタルコレクション

この話から、本来の型では刃毀れが生じるようなことはなく、演出のために刃毀れするような打ち方をわざとしていた可能性が考えられる。大正6年正月の一橋道場の道場開きでも、同じような演出の打ち方でやったのではないか。そうなると、刀の刃毀れの破片が額に多数刺さるというのも、そうした特殊な状況で生じる現象なのではないか。
情報源が限られるので検討しにくい話だが、現在集められる情報では以上のように考えられる。
今後また何か資料を見つけたら追記する。