続々・秋葉原通り魔事件とナイフ規制〜恐怖と憎悪が規制を生む〜

 秋葉原通り魔事件とナイフ規制続・秋葉原通り魔事件とナイフ規制〜誤解と誇張は憎悪につながる〜の続き。
 これまでの流れでダガーが規制されるのは間違いないだろう。そして、ネットでも「危険だから」「必要ないから」といった論調で規制が容認されている。しかし、実はダガーは危険だから規制されるのでも必要ないから規制されるのでもない。例えば自動車は法定速度をはるかに上回るスピードで走れるものが無数にあって、はっきり言って危険を生むものでしかないが容認されている。酒も犯罪や病気の原因になることが多々あるが、これも今回のダガーのようには排斥されない。また、趣味・娯楽の世界に属する多くのものは必要性がないものでも「必要ないから」と規制されることはない*1。こうした事物と異なりダガーが排斥されようとしているのは、人々の恐怖の対象となったからなのである。ダガーの危うさ、殺傷力は実はそうした恐怖心を醸成する材料の一つでしかない*2秋葉原通り魔事件とナイフ規制で私は以下のように書いた。

要するに「犯罪者に好まれる日用品ではない刃物」だから駄目なのである。ここで問題なのは「犯罪者に好まれる」という部分が印象によって決定されるということだ。あるいは実際に犯罪に多く使われているのかもしれないが、統計的なデータよりも悪い印象が社会に広まることが規制につながる。

 確かにダガーは戦闘用にデザインされたものである。が、それを問題視するのは今回使われたのがたまたまダガーであって、しかも「戦闘用のナイフを犯罪者が使うかもしれない」という恐怖心が広まったからである。そして人々は今までそうしたナイフが規制されていなかったことを憎悪し、規制しようとしている。恐怖心が生まれるのは無理もないことだし、戦闘用のナイフが不要だとする人々が多いのも分かる。だが、恐怖心ばかりが先行して規制に結びつけるのは本当は避けてほしい。例えばダガーを使った犯罪件数の割合が多いとか、事件が起きた際の被害者の致死率が高いとか実証されているなら規制が生まれるのもまだ理解できる。それなりの犯罪抑止や被害の悪化を防ぐ理由付けがあるからだ。しかし実際に規制を生むのは科学的な検証ではなく、恐怖や憎悪、嫌悪といった感情なのである。
 もしダガーナイフを規制から守りたければ、ダガーに対する恐怖心を除かなければならないが、それは容易ではない。この場合、ナイフ愛好家が規制そのものを攻撃してもあまり理解は得られない。日用品ではない刃物なんて趣味の世界の話で、人は他人の理解しがたい趣味には冷淡なものだ。規制そのものを攻撃するより、「危険人物には手に入らず、愛好家は苦労すれば合法的に手に入る」くらいの規制を提案するなら世間も納得できるかもしれない。例えばダガーの販売と購入を許可制にして許認可に金と時間がかかるようにすれば(アメリカの軍用銃の民間販売規制のように)、今回のような犯罪に使われることはまずなくなる。しかし国や刃物業界はそこまで考えてくれるかどうか…。

*1:マニアックな分野の物でも、社会的に攻撃されるまでになることは多くないだろう。

*2:しかし危険だから恐怖を生むのか、恐怖を生んだから危険視されるのか。この部分はかなり議論の余地があるだろう。危険性についての議論すら十分になされていない、とも言える。