クライマー事件の概要(5)

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 ひとまずこの事件についての一連のエントリは今回で終わる。
 ここまでの流れで、図書館は迷惑行為やその対応を規則で定めて行動しても、その規則内容や執行が問題になることが分かったと思う。それは、図書館の自由や権利といった基本理念にまで関わる問題であると同時に規則が恣意的に使われる/使われない可能性があるということなのだ。翻って日本の図書館で迷惑行為に及んだ利用者を退去させるとしたら、その判断の根拠はどうなるだろう。根拠はその場その場の職員の主観しかない。日本のほとんどの図書館は利用者の行為に対して成文化された、図書館内で統一をとった合理的な判断基準など持ち合わせていないのである。

アメリカ図書館協会の対応

 地裁判決後、アメリカ図書館協会(American Library Association, ALA)は、モリスタウン図書館側から控訴裁のための準備書面の提出を求められた。法廷費用の財政的支援も期待されていたという。しかし、ALAは討議の結果準備書面を提出しなかった。モリスタウン図書館が、サローキン判決のあらゆる点を否定していたためである。ALAの知的自由委員会(Intellectual Freedom Round Table)は、サローキン判決が「情報にアクセスする修正第1条の権利とその権利の体現としての公共図書館」を最大限に肯定し、更に利用者規則を定める権限・責任があることも認めていたため、ALAにサローキン判決を支持すべきと勧告していたのである。だがALA支部ニュージャージー図書館協会はモリスタウン図書館支持を表明していた。ALAは、図書館が守るべき原則と図書館が直面した現実の業務の問題、どちらを重視するか決められなかったのである。
 一方、ALAの法律上の問題に関わる団体である読書の自由財団(Free to Read Foundation)は両当事者のどちらも支持しない準備書面を提出した。その内容は「情報を受け取ることは修正第1条上の権利である」「公共図書館での情報への修正第1条によって保護されている」「公共図書館は図書館内での利用者の行動を規制する点で、一定の制限的な権限を持つ」とし、サローキン判決の公共図書館の位置づけにそったものであった。
 ALAや関連組織が中立を意識しながらもサローキン判決を重視したのは、サローキン判決が司法上の解釈として初めて公共図書館憲法上の存在意義を示したからである。この判決は、1939年の「図書館の権利宣言」をただの理想ではなく法的先例として確立するものであり、また現実の検閲や情報のフリーアクセスへの規制に図書館が対抗するために必要なものであった。しかしモリスタウン図書館がサローキン判決の中の公共図書館と修正第1条の位置づけすら否定したことから、知的自由委員会や読書の自由財団がこの判決を守らなければならなくなったのだ。このため両組織はまるでクライマー側についたかのように誤解されることとなった。
 控訴裁判決後、1992年7月に開催されたALA年次大会で読書の自由財団会長コナブル(Gordon M. Konabke)は、財団提出の準備書面にそったかたちで判決が下ったことを自賛した。また、サローキン裁判官が大会に招待され、そこでクライマー事件に関する法的問題の講演が開催された。しかし聴衆にはサローキンに敵対的と言ってもいい図書館員もいたという*1ニュージャージー州の図書館員にとって問題は一利用者の行動であり、サローキンや読書の自由財団が説明した法的問題には徹底して関心を示さなかったのである。こうした断層は、同様の問題においてその後も存在している。

アメリカ図書館協会の成果

 クライマー事件はいくつかの討議と成果をALAにもたらした。知的自由委員会はまず「図書館の権利宣言」の解説文の改訂を行った。この解説文は1991年、「図書館の資料、サービス、施設へのアクセスに影響する方針、規則、手続き」となった。委員会は解説文でクライマー事件やラスト対サリヴァン事件を採り上げている。
 ラスト事件は、政府言論と補助金の給付を巡る1991年の裁判である。この裁判で政府補助金を得ている病院・家族診療所に対して連邦政府が中絶情報の提供や中絶相談の禁止をしたことが認められた。この判例から公費支弁の公共図書館に対する検閲が危惧されたのは当然であろう。ALAや関連団体が憲法上の公共図書館の位置づけを示したサローキン判決を重視したのはこの判決に対抗するためでもある。その後知的自由委員会によってより広範な図書館業務に対応した「指針」が提出され、この解説文は破棄された。
 知的自由委員会が解説文に替わるものとして提出したのは「利用者の行動と図書館利用の仕方についての方針と手続きの作成に関する指針」(Guidelines for the Development of Policies and Procedures Regarding User Behavior and Library Usage)である*2。この指針は1992年に草案提出、公聴会が開催され、検討の結果1993年に採択された。これは現実的な公共図書館の問題に対応して、利用者の行動を規定し、規則を作るための指針である。これはクライマー事件が提起した問題の対応だけではなく、広範・包括的なものとして示された。また、この指針によってクライマー事件でALAが陥ったようなジレンマの解消も期待されたのである。図書館サービスの現実は曖昧だが、図書館の規則の作成には法律的な価値と図書館職員の価値の両方が作用することを意識する必要がある。それは、たとえ図書館職員の価値と利用者の利益が対立することになっても、修正第1条は制限的パブリックフォーラムでの権利と制限の均衡を求めているということである。
 「指針」が示されたことで全ての利用者行動に関わる問題は解決したのか?いや、これも一つの通過点だ。その後もアメリカの公共図書館におけるホームレスの利用と人権問題、さらに広範な利用者行動に対する規則の議論は続いている。日本でこの問題について議論をする人には、過去の事例や議論を知ってほしいし、もっと想像力を働かせてほしいと願う。この問題は「迷惑だから退館してもらってよい」で済むほど素朴なものではないのだ。

*1:アメリカ図書館協会知的自由部. 図書館の原則 : 図書館における知的自由マニュアル 第7版. 日本図書館協会, 2007,577p.

*2:ALA | American Library Historyに現行の指針が公開されている。