図書館がBL図書を置く問題について、参考になりそうな話(1)

最近、公共図書館でBL(ボーイズラブ)の資料を置くことについて色々とニュースになり、ブログでも話題になった。
まず、この手の問題は当然のように過去に参考になる例がある。
この問題は2つの方向性から考えられる。
(1)性的な描写のある資料をどう提供するか
(2)同性愛の描かれた資料をどう提供するか
この2つは「資料が偏っている」との批判も交えて入り組んでおり、(1)や(2)のような特定分野の資料を排除したい動機で資料の偏りが叫ばれることが多い。
まずは(1)の例について紹介しよう。具体的な事例ではないが、比較的近い話として青少年条例が制定され、有害図書指定が進んだ1990年前後の時代の例がある。

先例:有害図書と図書館

図書館界として大きく有害図書が取り上げたのは1992年の図書館雑誌の特集や全国図書館大会においてである。
背景として宮崎勤事件においてポルノコミックが犯人の人格形成に寄与したかのような報道があり、そこから有害図書を排除しようとする草の根運動が広まったことが挙げられる。宮崎勤の事件とほぼ同時期に行われた自販機ポルノ訴訟がこの運動に拍車をかけた。
1989年9月19日、最高裁は「岐阜県青少年保護育成条例違反被告事件」(自販機ポルノ訴訟事件)の判決として、有害図書類の自販機販売を禁じた岐阜県青少年条例は憲法第二十一条一項の「表現の自由」保障、二項の「検閲」の禁止に違反しないとして、自販機業者の上告を棄却した。これにより、青少年条例による有害図書の規制を推進する草の根運動が加速、1990年から1992年にかけて有害図書(ポルノコミックも含む)指定を盛り込んだ条例が各地で制定された。合わせてポルノコミックの販売、流通の様子が大きく変わっていった。成年コミックを示すマークが表紙に印刷されるようになったのもこの運動の影響である。
いわゆる有害図書を積極的に提供していた公共図書館はないが、こうした判決や条例は図書館の自由ともつながる問題と認識された。有害図書の運動が極めて感情的なもので、青少年の成長や犯罪との関係を検証していないこと、そして行政が図書の内容を有害かどうか判断できるという考えが一般化することが危険視されたのである。図書館界がこうした性表現の規制に対して批判的なのはアメリカも同様で、子どもを性表現から隔離することよりも図書館への未成年のフリー・アクセスを重視するのが基本だ*1
図書館雑誌』では1992年7月号の特集「有害コミック規制問題と表現・読書の自由」でこの問題を取り上げている。青少年と性的な描写を含む資料の規制についてはまずこの号を読むことをお勧めする。
有害図書規制の歴史的経緯と図書館界の反応に対しては『子どもの権利と読む自由(図書館と自由 13)』(日本図書館協会、1994)の中の「IV 有害図書と青少年条例」が詳しい。


ここで注意してほしいのは、特定の資料を有害とし、図書館から排除あるいは制限しようとするのは、同様の論理で別の規制をも可能とするということだ。図書館は常にそうした権力や規制の濫用を意識しなければならない組織なのである。
ただし、日本の公共図書館の自由は政府や自治体から与えられた自由なので、その辺の感覚が鈍い*2。日本では図書館の自由を巡る議論は1970年代までほぼ存在していなかったとさえ言われる所以である。これはパブリック・フォーラムや公共圏といった議論が日本では難しいのと一緒である。日本語の「公共」「公」は政府・自治体のことであって英語のpublicとのズレがあり、それは図書館問題を議論する上でも影響していると思われる。
図書館がBL図書を置く問題について、参考になりそうな話(2) - 火薬と鋼
(2008-11-1 脱字修正)

*1:これは規制が存在しないことを意味するのではない。図書館は情報へのフリー・アクセスの保障をまず基本に考える、ということである。

*2:逆に言うとアメリカの図書館の自由は権力や規制と戦って勝ち取ってきた自由である。日本の図書館の自由はほとんど輸入品。