「気圧計の問題」の意図

 しばらく前に有名な都市伝説がはてブで話題になった。
 はてなブックマーク - [PDF] ある物理学生の回答 「気圧計を用いて,高い建物の高さを決定することができることを示しなさい」
 関連エントリもいくつか書かれている。
 この話はアメリカでは有名な都市伝説で、私はアメリカの都市伝説に興味があった頃にいくつかの英語サイトで紹介されているのを読んだことがある。
 都市伝説としての来歴はFACT CHECK: The Barometer Problemが詳しく、日本語では気圧計の問題 - cloud9science @Wiki - アットウィキで解説されている。


 日本ではそもそものエピソードが知られていないせいか、実話と思った人もいるようだ。
 ボーアってあんな回答をするような人だと思われているのだろうか。
 ボーアの人となりについては伝記でしか知らないが、この話の学生とはちょっとキャラが合わないように思うのだが(ファインマンはやってもおかしくない)。
 ボーアの名前が都市伝説に加わったのは彼が一種の「権威」だからで、この話を実話と信じて評価した人の何割かはその「権威」に目が眩んで「さすがボーア」と思ったのだろう。


 さて、この話に関して、事実と誤認した人もそうでない人も、発想の柔軟性・多様性を称揚する「良い話」だとみなしていることがある。
 しかし本当に良い話だろうか。
 私のような偏屈は、こういう都合の良い作り話には引っかかるものを感じる。
 ジョークとしては面白いが、良い話というのは違うのではないだろうか。


 この気圧計の問題の大元は、アメリカの科学教育に貢献したAlexander Calandraである。
 元となった記事のタイトルAngels on a Pinを見て気づいた人もいるだろうが、これは中世のスコラ哲学論争で有名な議題How many angels can dance on the head of a pin?(ピンの頭の上で何人の天使が踊れるか?)が元になっている。
 なぜ中世神学論争が科学教育の逸話の題で出てくるのか、その意味を考えなければならない。
 なぜそんなタイトルがついたか、その理由は日本語の記事では省略された部分にある。
 日本語の記事では、学生と教授の最後のやり取りは以下のようになっている。

この時点で、この質問に対する型にはまった答えを実際に知らないかどうか学生に尋ねました。
彼は、知っていることを認めたが、考え方を教えようとする高校や大学の教官にうんざりさせられたと言いました。

 この文章の「考え方を教えようとする」に違和感を感じた人はいないだろうか。
 これでは意味不明だ。実は大元の英語の記事ではもっと長い説明があり、それが省かれたのである。
 大元のAngels on a Pinでは以下のようなやり取りになっている。

この時点で、この質問に対する型にはまった答えを実際に知らないかどうか学生に尋ねました。
彼は、知っていることを認めたが、主題の構造よりも、科学的手法を使った考え方や新しい数学によくある衒学的な方法を使って主題の深く内的な論理を探ることを教えようとする高校や大学の教官にうんざりさせられたと言いました。
彼はこれを念頭に、学問的な冗談として、スプートニク・ショックを受けたアメリカの教室に挑戦するため、スコラ哲学を蘇らせることを決めたのです。
(かなり雑な訳)

 この部分こそ、タイトルの由来であり、大元の記事でCalandraが書きたかったことだろう。
 そして、ここで注目すべきは、「新しい数学」の手法は「衒学的な方法で主題の深く内的な論理を探ること」で、それは「主題の構造」を探ることより価値がないものだと示唆していることだ。
 しかし両者の意味合い、違いは明確には示されていない。
 懐疑論者のDonald Simanek博士は、この点に対して以下のように批判している*1

Callandraは、「衒学的な方法で主題の深く内的な論理を探ること」がスコラ哲学の空虚な議論と同様のものであることを示唆している。
彼はこれを「新しい数学」(60年代、機械的暗記から論理・原理の深い理解に置き換える試みが報じられた)と比べ、その努力を嘲笑しているようだ。
よって、我々はこのエッセイからどんな明確で役に立つメッセージも得られないだろう。
(かなり雑な訳)

 要するに、Calandraによる大元の記事は、当時の数学(教育)批判だったのである。
 その部分を差し引いても、学生の回答部分は良い話だと思う人もいるかもしれない。
 しかしここまでの説明を読めば分かるように、学生は日本語版で省かれた部分で批判されている「衒学的な方法」で回答をしているのだ。
 「衒学的な方法」=「新しい数学」というCalandraの認識が正しいかどうかは措いても、この学生の回答は衒学的だろう。
 このエピソードのような回答方法・内容にどれほどの価値があるのか?
 私は、例えるなら「電話で謝れ」と言われてお詫びに電話をプレゼントしようとするようなもので、トンチ話でしかないと思う。