図書館はなぜBL小説を受け入れたのか・その他の問題

 今回は図書館情報学の話に自分の感情の話も混じっているので、分かりにくいし賛同や理解が得られない部分もあると思う。


 堺市立図書館のBL小説の一件について、http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081114/p2に対しての反応である。Thscさんの論は、肯定できる部分とそうでない部分があるのだが説明が難しい。Thscさんの論だけに限定せず、この問題を取り巻く話全般に広げてしまっているが、勘弁してほしい。Thscさんの問題意識とズレてしまっている部分は、もう図書館情報学に関わった挙句の病気のようなものだ。


 まず、これまでここでは図書館が既に所蔵している資料の扱いについての原則を説明してきた。
 これは、図書館がどういう原則で活動しているか、それ自体知られていないのではないかと思ったため、理解しやすい部分から説明したほうが良いと思ったからである。
 実際にはどうしてその本を買ったのか?という点での批判も当初からあったわけだが、この話はややこしい事になるので今まで書いてこなかった。恐らくかなり判断が分かれることになるだろう。

そもそもポルノって何

 大雑把にいって性表現を主としたものがポルノとされるわけだが、実際にはポルノかどうか、グレーゾーンに位置するものもある。ではどうやってポルノかどうか判断するかというと出版、流通、行政*1による情報(特に前二者)に依拠していることが多い。特に現物を目に出来ない場合には。そしてポルノ-グレーゾーン-非ポルノの線引きは、所属するコミュニティや時代によっても差がある。内容で判断する場合も上記のような要素が影響を与える。
 わいせつや有害図書を認定する方式として個別指定*2と包括指定*3の2種があり、ポルノであるかないかも個別指定に従うのが恐らく正しいが、現実には特に小説のような文字情報中心の資料では、上記のように出版、流通の情報が包括指定に近いかたちで影響することがある。

BL小説はポルノか

 この部分はかなり怪しい。図書館のBL小説を問題視している場合、多くはBL小説がポルノであることが自明のものとして語られる。あるいはポルノとしてのBL小説だけに限定した言及にも関わらず、まるでBL小説全てがポルノであるかのように語られる。実際に堺市で問題になったBL小説には問題となる性表現が無いものがあったとされているにも関わらず、である。
 問題となった蔵書に限定しても、過去出版されたBL小説に話を広げても、単純な「BL小説=ポルノ」という図式は成り立たない。
 性表現のあるBL小説は、個別に判断しなければ分からないが、ポルノもあるかもしれないし、グレーかもしれない。例え出版社やレーベルで推測できたとしても、である。
 BL小説がポルノであるとは限らないのに、全てのBL小説がポルノであることを前提に(あるいは前提であるかのように)語るのは、議論の方法として間違っているし、BL小説やその読者に対する偏見を深めるだけだろう。
 では、ポルノであるBL小説だけ受け入れなければよかったのだろうか?「ポルノであるBL小説」は本当に自明だったのか?私は個別指定の考えを無視してそうした判断ができるとは考えない。また、この種の問題が起きた時、規制や除去を主張する側が資料そのものを読んでいないというのもよくある話だから、特に検討する必要がある。

図書館はなぜ性表現のあるBL小説を受け入れたのか

 選書論はそれだけで本複数冊に及ぶ複雑な世界なので説明しない。単純に言えば「BL小説のかなりのものはポルノ的ではないので、印象としてポルノ小説という認識を持っていない可能性」「市民のリクエスト重視」の2者が受け入れの主な要因だろう。

ポルノなら受け入れないのか

 ここは人によって意見が割れる。
 ほとんどの図書館員はポルノを受け入れないだろうが、受け入れていいか悪いかというのは、特にその理由付けについて議論がある*4。図書館の選書に対する議論は、「同様の論法で検閲や規制が強化されないか」ということを警戒するものである。ポルノに対する受け入れ規制も、論法によっては危険なものになりかねないというわけだ。
 ではなぜ多くの図書館員はポルノを受け入れないのか?単純にポルノは受け入れるものではないという歴史があるからである。思想善導的な図書館の系譜というのは、良くも悪くも形を変えて市民にも図書館にも残っていて、公序良俗に反しているような資料はまず受け入れられない。だから図書館で性的表現・性差別が問題となるのはグレーゾーンに位置する資料や、これまで問題視されていなかったのに突然問題視されるようになった資料であることが多い。

図書館員は問題になるような資料を受け入れるべきではなかったか

 1959年刊行のアメリカの社会科学者M.Fiskeの『図書の選択と検閲』(原題Book Selection and Censorship)では、図書館の検閲は外部圧力よりも図書館員の自己規制によるものであることが調査結果として報告されている。
 これは現在の日本にも通じる話で、図書館員は外部圧力を過剰に警戒して自己規制することがないようにしなければならない。自己規制は避けるべきことで、今回の一件もそもそも問題になるような本だったのか?という前提の議論のほうが大事だ。

問題になるようなBL小説をリクエストすべきではないか

 ここから図書館情報学というより個人的意見。
 処世としてBL小説愛好者であることを、BL小説を隠すというのは理解できるが(そもそも俺だって隠れオタだし)、こうした問題が起きた後に隠すことを推奨するのは俺の好みじゃない。俺は自分が我慢するのはともかく他人に我慢させるのは我慢できない(矛盾)。ましてリクエストしようとする人間、リクエストした人間を責めるのは何かおかしいと感じる。恐らくリクエストした人はここまで問題になるとは思っていなかっただろうし、実際ここまで問題視されるようなことなのかどうか。そもそも権利を行使することはそんなに悪いのか? この場合すべきことはリクエストした人間を責めることじゃなくて擁護することじゃないのか? 俺が一連のBL小説と図書館に関するエントリを書いた最大の動機はそこにある。
(2009-11-15追記)
 恐らく今回の一件で最も批難される要素があるのは堺市立図書館の選書、配架、その後の対応だろう。あれではその場その場を取り繕った場当たり的な対応をしているだけである。この図書館の各局面での対応につっこみを入れるのも重要なことだが、とりあえずここではやらない。図書館ネタばかり続けたためにちょっと精神的につらくなってきた。
 過去の事例や議論も踏まえて多くのレイヤーで論じられる興味深い問題なのだが…。

*1:有害図書指定による。

*2:1冊ごとに有害性を審査する方式

*3:「全裸」「半裸」など卑猥な表現が一定割合を越える資料を個別に審査することなく有害とする方法。萎縮効果が高く、違憲性が強いとされる。

*4:伊藤昭治、山本昭和編著『本をどう選ぶか』(日本図書館協会,1992)のp30