図書館と歴史修正主義・人種憎悪

今回は、図書館で歴史修正主義や人種憎悪にどう対するかという問題の有名な事例を紹介する。
本当は一年前に書く予定だったが、色々あって遅れてしまった。
はてなでもヘイトスピーチを規制するかどうか、あるいは有害図書を規制するかどうかといった表現の自由に関する議論がしばしば起きている。この種の図書館での事例を紹介するのも、何かの参考になるかもしれない。
これまでも図書館と表現規制に関連した話題をいくつか紹介してきた。
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今回の事例は、反ユダヤ歴史修正主義者のデヴィッド・マッカルデンがアメリカの図書館やイベントで人種憎悪に基づいた展示を行おうとした際に起きた問題で、マッカルデン事件と呼ばれているものだ。
事件の概要はLibrary Ethics - Jean L. Preer - Google ブックス919 F2d 538 McCalden v. California Library Association | OpenJuristが分かりやすい。英語が読める人はこちらを読んだほうが良いだろう。

図書館の自由

アメリカや日本の公共図書館が重んじる「表現の自由」「知的自由」と言う原則は、例外を認めない。例外を認めるか否かという判断基準はなく、図書館は特に道徳的な価値判断を提示しない。
多種多様な情報から利用者がどの情報を受容するかは、思想の自由競争の場である社会の中で決定される。図書館はそのための判断材料を提供するのであって、思想善導の場ではない。
同様の理由から出版に対して公権力が規制、検閲を行うことにも図書館は反対している。これは人権同様古くて新しい問題であり、長年の蓄積の中で成熟、普及していったものである。しかし、この見解は必ずしも全て社会に受容されるわけではなく、実際の運用では摩擦を起こすことがある。

発端:カリフォルニア州トーランス市立図書館

1983年、ロサンゼルス郊外にあるトーランス市立図書館では禁書週間の展示を行うことになっていた。禁書週間については以前学校図書館と検閲の事例 (2) - 火薬と鋼の最後で紹介した。
アメリカではアメリカ図書館協会知的自由部が中心となって毎年学校図書館や公立図書館に対して除架・利用制限依頼のあった資料リストを公開し、その資料の読書を呼びかける禁書週間(Banned Books Week)を開催している。
この年、デヴィッド・マッカルデン(David McCalden - Wikipedia)は自分達の著作が検閲を受けているとして禁書週間の展示に加えるように同図書館に申し入れた。マッカルデンはイギリスの極右活動家・世界的なホロコースト否定論者として知られている。ナチスによるホロコーストユダヤ人によって誇大に宣伝されているとか、アンネの日記は偽造であるとか、現在も生き残る反ユダヤ的な歴史修正主義の主張を世界的に広めた人物だ。
マッカルデンの申し入れに対し、同図書館館長はあまりに一方的な見方であること、有名ではない著者の知られていない著作であることを理由に断った。その後マッカルデンはアメリカ図書館協会(ALA)の知的自由部に連絡を取り、カリフォルニア図書館協会(CLA)の知的自由部に接触した。

カリフォルニア図書館協会の対応とその決着

マッカルデンはCLAの年次大会でホロコースト否定論団体のTruth Missionsの展示と集会室利用を申し込んだ。これには禁書週間の展示の代案として示唆があったとされている。
1984年8月、マッカルデンの展示スペースと「Free Speech and Holocaust」という名称の会議プログラムはCLAに受理された。
なお、CLAの事務局長S.モーゼズはユダヤ系で、他に大会企画委員会のメンバーにもユダヤ系の図書館関係者がいる。
同年9月17日、大会プログラムがCLAの評議会で配布され、参加者から全米ユダヤ人委員会へと情報が伝えられた。全米ユダヤ人委員会からCLAに抗議がなされ、CLAでは一旦マッカルデンの申し込みをキャンセルした。
これに対してマッカルデンは契約不履行で訴えるとCLAに連絡、その結果キャンセルはなかったことになった。


同年11月13日、この問題をロサンゼルス・タイムズが取り上げ、「図書館界ホロコーストが神話であるという主張に耳を傾ける」という記事にしたことで事件は広く知れ渡った。新聞報道がきっかけとなって市民団体やユダヤ人団体からCLAに抗議が行われるようになり、ロス市警も年次大会の警備上問題があることを連絡してきた。
11月16日には市議会でCLAに反対する決議が行われ、全会一致で採択されている。
決議内容は強硬なもので「全てにアメリカ人は自分の見解を自由に表現する権利を有し、我々はこの権利を擁護しなければならない。しかしCLAの年次大会といった立派な場を憎悪に満ちた勢力に提供する義務はない」とし、ロサンゼルス市がCLAとの関係を一切断つことを表明していた。これは、市の組織である公共図書館も市の職員である図書館員もCLAから脱退させることを意味している。
11月19日、新聞、市議会、市長、市民からの抗議と警備を保障できないという警察の見解といった状況を受け、CLAはマッカルデンの申し込みのキャンセルを決定した。キャンセルについて、CLAは契約の「図書館協会は問題ある展示を制限する権利を有する」という文言に基づくと説明した。
こうしてマッカルデンの扱いは確定した。

カリフォルニア図書館協会年次大会での見解

12月1日に始まったCLAの年次大会ではマッカルデン事件について関心が高く、いくつもの発言があった。
CLA会長クレスマン:「Truth Missionsに展示スペースと集会室を貸せば、大会全体が大混乱になった可能性がある」と結論付けた経過説明を行った。
CLA次期会長ウッド「論争は予期していたが、これほどの抗議や市議会の圧力は予想してなかった」「思い切って言えばCLAの全会員がこの問題の一側面については立腹している」とやや婉曲に外圧による決定を非難した。
CLA法律顧問キャッセル「マッカルデンの申し込みをキャンセルしても米国憲法修正第一条*1違反にならない」との判断について、CLAが私的団体であるためと理由を説明した。
CLA会員はロサンゼルス市がCLAに強圧をかけてきたことを非難し、市の威嚇に対して強い不満を表明する決議が求められたが、予算措置への懸念から市議会を名指しで批判しない婉曲な決議が採択された。
決議内容は「評議会は市議会や諸団体が公共政策への意見表明権を有することを認識している」としつつも「この問題は協会内で処理されるべきである」と、外圧を遠まわしに非難するものだった。

図書館界の見解

マッカルデン事件に対する見解は二つに分かれる。
一つは表現の自由に対して例外を認めない考え方で、マッカルデンの権利も守られるべきとするもの。これは純粋解釈派と呼ばれる。
もう一つはマッカルデンが行っているような憎悪、差別に基づいた表現は制限されるべきだというもの。こちらは社会責任派と呼ばれる。
発端となったCLAは純粋解釈派が多く、ユダヤ系で実際にナチスの弾圧を経験しているクレスマン会長もマッカルデンへの展示スペースと集会室の提供を擁護している。モーゼズ事務局長も同様で、11月13日のロサンゼルス・タイムズで「私はあなたの言うことに同意しないが、あなたが話す権利を全力で守る」というよく知られた言葉で表現の自由の堅持を主張した。
公民権運動や人権擁護団体として有力なアメリカ人権協会も「本協会は表現の自由という権利を強く擁護する。この権利はマッカルデンの場合にも適用できる」と表明し、協会事務局長のC.ソベルは「私的団体であるCLAはマッカルデンの申し込みを受け入れる必要はなかった」とした上で「アメリカ人権協会は、思想の自由は我々が嫌悪するものの自由も含むという原則に専心する」と述べた。
また、ALAの機関誌American Librariesの1985年2月号でもマッカルデンの表現の自由を保障すべきであったとの図書館員の投書が2つ掲載された。


CLAに限らず、アメリカの図書館界では古典的自由主義に基づく表現の自由の見解が主である。
ここに一つの例証がある。
アメリカ図書館協会(ALA)は1988年の年次大会でこのマッカルデン事件を取り上げ、純粋解釈派と社会責任派の討論を行い、議論について投票を行った。投票結果は、純粋解釈派の論者を支持した人76名、社会責任派を支持した人26名、保留26名。
このことからも分かるように、図書館界では表現の自由に例外を作らないというのが主流だ*2
これは、表現の自由の制限が何らかの名目を隠れ蓑になされることがあるという図書館界の歴史的経験も一因である。
ただし、図書館界のこうした考え方に基づく発言や情報提供が差別や偏見を助長する(あるいは推奨していると勘違いされる)という問題は抱えている。
だが、ALAは差別や憎悪表現を推奨しているわけではなく、ただ表現の自由だけを主張しているのではない。
方針マニュアルにも「偏見、ステレオタイプ、差別との戦い」(Combating Prejudice, Stereotyping, and Discrimination)という文章があり*3、差別と積極的に戦うことを謳っている。

*1:表現の自由についての条文

*2:ALAには社会的責任を重視する見解もある。Social Responsibilities Round Tableが代表。

*3:http://www.ala.org/ala/aboutala/governance/policymanual/index.cfm