第二次世界大戦と軍隊格闘技

第一次世界大戦と軍隊格闘技 - 火薬と鋼の続編。
と言っても前回のように多くの国の例は出さない。この時期、ほとんどの国では第一次世界大戦前後の軍隊格闘技を引き継いでおり、劇的な変化というものは限られているからだ。研究や変化自体はあったが、第一次大戦のような大規模な影響となると限られている。
そんな中から、今回は第二次世界大戦期に広まり、後に影響を及ぼした英米の近接戦闘技術体系であるフェアバーン・システムを中心に説明する。

W.E.フェアバーンの時代

1940年、ドイツ軍がポーランドを始めにヨーロッパ各国への侵攻を開始すると、イギリスは占領された地域で破壊工作やレジスタンスの支援を行なうため、特殊作戦執行部(Special Operations Executive, SOE)を創設した。同様にアメリカも1941年に情報調整局を設立、それが1942年に戦略情報局(Office of Strategic Services, OSS)に発展する。
こうした機関で指導をしたのがW.E.フェアバーンとその高弟E.A.サイクスである。


SOEOSSに至るまでのフェアバーンの経歴を解説しよう。
イギリス海兵隊出身のフェアバーンは、1907年から上海自治警察(SMP)勤務を開始した。1908年に暴漢に襲われ入院。その病院のベッドで柔術整骨の広告に目を留め、退院後にその柔道整骨を営む日本人岡田某から真之神道柔術を3年半習ったとされる。また1919年には東京の講道館柔道を習い始め、1931年に黒帯2段を取得した。この他に北京で中国拳法をCui Jindong(Tsai Ching Tungとも)に学んだという。この中国拳法を教えた人物は中国の宮廷警護の教官を勤めた人物で当時83歳だったとフェアバーンの著作には記されており、一説にはその拳法は八卦掌だと推測されている。
1910年に巡査部長に昇進したフェアバーンは射撃教官となり、やがて階級が上がると予備部隊(Reserve Unit ; RU)という暴動鎮圧部隊を組織し(現代のSWATのような部隊)、600件を超える武装衝突に関わって経験を蓄積したとされている。
この上海時代のフェアバーンは射撃においても新しい訓練や技術を生み出している。例えば、ミステリー・ハウスという建築物状の射撃訓練施設(後の時代でいうキリング・ハウス)やマウザーピストルの7.63x25mm弾を止める能力を持つ防弾ベストの開発といったものがある。この時代、フェアバーンは自らのシステムをディフェンドゥ(Defendu)と名づけた。また、シャンハイ・ダガーと後に呼ばれるナイフのデザインも行った*1
上海時代のフェアバーンは、"Shanghai Municipal Police Self Defense Manual"(1915)、"Defendu!"(1926)、"Scientific self-defence"(1931)、"All in Fighting"(1931)といった本を出版している。

1939年、フェアバーンは上海自治警察副長官として引退し、1940年にサイクスとともにイギリスに帰国。英国陸軍省に大尉として迎えられる。ナチス侵攻が恐れられていた当時、フェアバーンらはまずスコットランドの訓練施設で国土防衛軍の後方残留部隊を訓練した。この部隊は仮にナチスに占領された場合、レジスタンスとして抵抗運動を続けるための秘密部隊であった。その後は、SOE、SIS、コマンド部隊、海兵隊などに対して指導した。この時期、フェアバーンらは教官となる人物を養成し、そのシステムを広められるようにしている。ここで訓練された技術はディフェンドゥを元に諜報機関・軍向けに短期間で習得できるようにアレンジした近接戦闘術で、特に格闘技術は「サイレント・キリング」と呼ばれた。
1941年にはフェアバーンは上海時代に開発したナイフを元にフェアバーン・サイクス・ファイティング・ナイフというダガーを開発し、これは後々まで英米の多くの部隊で使われた。
1942年、アメリカがOSSを創設すると、フェアバーンは米国に中佐待遇で招聘され、OSSの訓練施設・キャンプX(カナダ・オンタリオ州)の教官となった。そこで指導を受けた軍人の1人にレックス・アップルゲートがいる。アップルゲートはフェアバーンの持つ技術を習得し、フェアバーンの訓練時のデモンストレーション・パートナーを務めるまでになった。アップルゲートは1943年にその技術をまとめた"Kill or Get Killed"を出版し、米軍の指導者として活動した。


動画:フェアバーンとアップルゲートのデモ



一方のサイクスはイギリスでSOEへの指導を続け、1942年には拳銃射撃の古典とでも言うべき"Shooting to Live with the One-Hand Gun"という本をフェアバーンとの共著で出版している。しかし1944年には健康を害し、1945年4月6日に退役。1945年5月12日に病死している。享年62歳。
サイクスやアップルゲート以外にこの時代にフェアバーンの弟子として活躍した人物の一人に、ダーモット・M・"パット"・オニールがいる。彼は講道館柔道5段、その他に中国拳法などの経験もあった。1928年〜1938年の間、上海自治警察でフェアバーンから指導を受けたオニールは、後にアメリカに渡り「悪魔の旅団」(Devil's Brigade)と呼ばれた第1特殊任務部隊(1st Special Service Force)で格闘技を指導した。彼の技術は非正規戦闘、護身のためのフェアバーン・システムとは違って前線で戦う兵士のための攻撃的な技術であり、オニール・システムと呼ばれている。
映画『コマンド戦略』(1967)でジェレミー・スレートがこのパット・オニール役を演じており、格闘シーンもある。


動画:映画『コマンド戦略』でパット・オニールを演じるジェレミー・スレート



なお、アメリ海兵隊はアップルゲートに先立つ1930年代に上海駐留の海兵隊員がフェアバーンの指導を受けている。その中の一人サム・タクシスがアメリカ帰国後にA.J. ビドル大佐にフェアバーンのディフェンドゥを報告し、ビドルは自著"Do or Die"(1937)でそれを紹介している。ビドルは1930年代から米海兵隊の近接戦闘の指導をしているが、フェアバーンOSSの指導をするようになってからも直接の関わりはない。

フェアバーン・システムの内容―サイレント・キリング

上海時代にフェアバーンが指導した技術は当初ほとんど柔術・柔道の関節技・投げ技が中心だった。これは、護身と逮捕が中心だったためであり、縄を使った捕縄術、また応用として素手で銃に対処するGun disarmingもあった。
一方、SOEOSSに指導するにあたって、こうした柔術・柔道以外の技法にも重点が置かれるようになった。
SOEのサイレント・キリング・コースは次の6セクションに分かれている。

  • セクション1 手刀打ち

 手刀で首、鼻、こめかみ、前腕、上腕、腎臓などを打つ

  • セクション2 その他の打撃

 横蹴り:相手の脛を蹴りそのまま靴底の角で脛を擦って足を踏む
 ボクシング:ボクシングのパンチ技術
 開いた手でのチンジャブ:開いた手で顎を打つ。その後指先が目に入るように指を少し曲げておく(虎爪)。
 膝蹴り:特に近い距離で下腹部・股間を打つ。
 頭突き・肘打ち:他の攻撃が有効ではないポジションの際に使う。
 指先でのジャブ:指先でみぞおち、のど、目を突く。

  • セクション3 掴まれた際の脱出(手首や首を掴まれた際の手ほどき・関節技)
  • セクション4 集団戦闘
  • セクション5 ナイフ格闘
  • セクション6 要求にあわせたシチュエーション別の技術(歩哨への奇襲・拳銃捕りなど)

これらの内容は"Get Though!"で確認することができる。
COMICS WITH PROBLEMS #46 GET TOUGH! (1942 Military Hand-to-Hand Combat Guide)
時期・指導者によって指導内容に違いはあるが、基本的な部分は同じである。フェアバーン・システムは漫画『喧嘩商売』にも登場したので、それで知った人もいるだろう。
次の動画ではナイフ、手刀、つかみへの対処のデモンストレーションを見ることができる。

この他に武器術、射撃技術やフィジカルトレーニングなど幅広く指導している。

フェアバーンのナイフ


フェアバーン・システムで用いられた代表的なナイフにフェアバーン・サイクス・ファイティング・ナイフ(F-Sナイフ)がある。F-Sナイフは英米の兵士を中心に多くの人々に使われた。
Fairbairn–Sykes fighting knife - Wikipedia
細身のダガーであるF-Sナイフは、鋭い切っ先が肋骨の隙間など狭い領域でも突きやすく、効果を発揮する。フェアバーンはこのナイフを用いた技術について、部位による出血量の違いまで踏まえて指導した。*2
このナイフは評価され、多くのバリエーションや発展形を生みながら第二次世界大戦後も各国で使われることになる。


また、同様にフェアバーンがデザインしたスマチェットは幅広でふくらんだ輪郭の大型ナイフで、兵士がしばしば利用した。
The Fairbairn Smatchet
片方は全て刃がついているが、もう片方は先端から半分までしか刃がついていない。スマチェットは、F-Sナイフと違って突きよりは叩き切る用途が中心である。


フェアバーンは隠し武器の開発・指導にも関わっているとされている(これはサイクスだけという説もある)。ラペル・ダガーと呼ばれる小型の隠しナイフがその例だ。こうした隠し武器はSOEのエージェントが使用した。
http://www.cqbservices.com/?page_id=58
こうした専用のナイフに加え、銃剣術や棒術、日用品の武器化も指導した。

まとめ

第一次世界大戦後、各国で伝統武術・近代格闘技を参考に軍隊格闘技が整備されていったが、第二次世界大戦では特殊部隊や諜報といった部門のための近接戦闘技術が特に発展した時代であった。
例えば日本では陸軍士官学校で柔道・空手・合気道が訓練で用いられたし、スパイの養成をしていた陸軍中野学校では藤田西湖が南蛮殺到流拳法を指導していた。
だが、各国の中でもイギリス・アメリカで指導をしたフェアバーンの影響力は大きい。
伝統だけでなく実戦経験や科学を踏まえた体系を作り上げたこと。当時の欧米人としては珍しく中国武術を習ったこと。拳ではなく開手での打撃を採用したこと。多様で習得しやすい打撃技を取り入れたこと。急所攻撃や背後からの奇襲、集団戦闘など、実戦的で容赦のない技術を指導したこと。射撃技術も含めた体系だったこと。ナイフや装備の開発に関わったこと。そして戦勝国で多くの指導者を育てたこと。
こうした要素はその新しさもあって後の欧米の軍・諜報機関・警察の近接戦闘(CQB)技術に影響を与えた。
フェアバーンの技術は当初は警察のため、そしてその後は非正規戦闘のための色彩が強く、その後そっくりそのまま継承されたわけではない。しかしそれまでの発展途上の近接戦闘には存在していなかった技術を多く含んでおり、中世の決闘のような格闘から近代戦の格闘へと完全に切り替わった記念碑的な存在である。

参考文献

William E. Fairbairn (1913). Shanghai Municipal Police Manual of Self Defense. China Publishing & Printing
William E. Fairbairn (1926). Defendu. the North China Daily News & Herald
William E. Fairbairn (1931). Scientific Self-Defence. D. Appleton & Company
William E. Fairbairn, Erick A. Sykes (1941). Shooting to Live. Oliver & Boyd
Anthony J. D. Biddle (1937). Do Or Die: A Supplementary Manual on Individual Combat. Marine Corps Association
William E. Fairbairn (1942). Get Tough. D. Appleton-Century Company
William E. Fairbairn (1942). All-In Fighting. Faber & Faber
Rex Applegate (1943). Kill Or Get Killed: A Manual of Hand-to-Hand Fighting. Military Service Pub. Co.

http://www.gutterfighting.org/History.html
Western Tigers in Old Shanghai
http://www.cqbservices.com/?page_id=13

*1:True Shanghai fighting knife

*2:ただし、その医学的根拠はずっと後に信頼性が低いことが明らかになった。